説教要旨

2024年4月7日説教要旨

「あなたがたに平和があるように」 家次恵太郎牧師 

ヨハネによる福音書20節19~29節 

イエス様の弟子たちは、部屋に鍵をかけていました。十字架に死なれたイエス様の墓が空になっていたことを知っています。しかしそれ彼らの心を平和にするに至りませんでした。情報でしかないのです。人はキリストに出会われ、語り掛けられなければなりません。主はそんな彼らの部屋に来て、真ん中に立たれました。真ん中ですから、全員から見える。まさに、注目、です。イエス様は、全員に向きあって「あなたがたに平和があるように」と言ってくださるお方です。その平和は弟子たちが本当に欲しかったものでした。単なる寂しさとも違う、後悔だけでもない、死刑になった男に属していた者として扱われる恐怖だけでもない。鍵をかけて閉じこもっているしかない内向きな恐れ。外も、未来も、今はもう興味がない。イエス様は鍵を破壊して来られたのではありません。その部屋の鍵は次の場面にも出てくるからです。鍵をかけたままの弟子たちに近づき、その心の奥に語り掛けたのです。「主を見て喜んだ」。いつぶりの喜びだったのでしょうか。それだけが喜びを奪い、それだけが彼らに部屋の鍵をかけさせる、イエス様の死と自分たちの今。もう何も新しいことは起きてほしくない、入ってきてほしくない。そして弟子たちは聖霊を受けて神の力に包まれて遣わされました。十字架の傷跡の残る御手から手渡すように、罪の赦しを携えさせて。十字架と復活のキリストが喜びと共に伝えられるように。

その時、弟子の1人、トマスはそこにいませんでした。彼は、イエス様が十字架で死ぬならば一緒に死のうではないかと口にし皆に呼びかけていたほどの思いをもっていました。しかし全ての人と同様、思いと行動そして実績は正比例しないものです。申し訳なさ。悔しさ。主を見て喜んでいる弟子たちに喜べない心があります。彼にとっては十字架の傷を受けて死なれたイエス様と、のうのうと生きている自分が許しがたく、イエス様と自分の関係はそのようにしか考えることはできなかったのでしょう。イエス様はトマスが弟子たちと一緒にいる日曜日に現れてくださいました。トマスの言葉とそれを発した心に触れるように応えてくださいました。トマスの心の傷である十字架の傷を、その心も罪も人生全てをも受け入れるために神がなさった近づき方として示してくださったのです。罪の赦しの十字架に誰も一緒にいることはできませんでした。しかし、その傷を無かったことにするのではなく、その傷によって人が癒され神と出会うために、復活のイエス様には傷が消えずに残っているのです。

2024年3月31日 イースター礼拝 説教要旨

「生きて」 家次恵太郎牧師 

マタイによる福音書28節1~10節 

主イエス・キリストの復活を祝うイースターの礼拝は、喜びを分かち合います。しかし、まず世界で初めてキリストの復活が伝えられた日曜日、早朝の出来事を伝える聖書には「恐れることはない」という言葉が繰り返されました。恐れていたからです。なぜでしょうか。地震が起き、墓をふさぐ大きな石が転がされてどけられ、天使が現れました。しかし、本質的にそれが原因ではありません。「番兵たちは恐ろしさのあまり死人のようになった」とあります。この恐れは神の現臨に直面した人間の恐れです。復活は、人間の経験の中にも、経験から予測できる事態の中にもありません。神のみによってなされる予期しない出来事、全てを転覆させる神の力の現れです。

神はイエス様の死さえも、新しい命によって覆してしまわれました。そうして罪の贖いを成し遂げられ、恐れから解き放つ方として既に死に打ち勝って動かれたという、救いの動線を、この朝、明らかにしてしまわれたのです。「婦人たちは恐れながらも大いに喜び」(8節)、恐れはあっても恐れに支配される必要はもはやなくなりました。喜びに動かされて行動を決するようになったのです。

弟子たちもそうです。「恐れることはない」と言われたイエス様は何を伝えたか。「わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)。

ガリラヤはイエス様と弟子たちと出会った場所でした。主はご自分を見捨ててしまい散っていった弟子たちに、「もう一度やろう」と言ってくださるのです。もう一度やってこい、ではない。「そこでわたしに会うことになる」のです。

ただ初心に帰るということではありません。時は戻りません。しかし時が進んだ先に、キリストがおられるのです。そこに人がいるだけではない。先立って待っていてくださるイエス様と共に会える、その御業を見るという約束です。

主は伴走者でいてくださいます。あらゆる不安のある日々の中にキリストが神の御力をもっていてくださり、恐れで終わらせません。

「おはよう」と言われるように。真心の交わりをつくり出してくださる神の御力。人はその時、生きるのです。人生のそれぞれの持ち場で、もう一度、ここで生きて、と言われるのです。

2024年3月28日 洗足木曜日礼拝 説教要旨

「その優しき手は」 家次恵太郎牧師 

ヨハネによる福音書13節1~8節 

 

洗いたいなと思う人生があります。しばらく洗えていないような毎日であったり、消耗した心を抱えているのではいでしょうか。

 

その私たちを、この上なく愛してくださるイエス様は、洗ってくださるというのです。

 

その手はやがて十字架の傷が刻まれる御手です。流された地は、私たちを罪から洗い清めるためであったのです。

 

この地上で、苦しむものに近づき触れ、赦し、癒し、語られながら触れたその優しき手が、十字架で死と罪に触れて取り除け、わたしたちを引き受け、想像をどこまでも超えて愛と洗い清めの中に生かしてくださる。その手が、今わたしたちに。

 

その手しか、ないのではないでしょうか。私たちには。全ての人には。

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