「あなたがたに平和があるように」 家次恵太郎牧師
ヨハネによる福音書20節19~29節
イエス様の弟子たちは、部屋に鍵をかけていました。十字架に死なれたイエス様の墓が空になっていたことを知っています。しかしそれ彼らの心を平和にするに至りませんでした。情報でしかないのです。人はキリストに出会われ、語り掛けられなければなりません。主はそんな彼らの部屋に来て、真ん中に立たれました。真ん中ですから、全員から見える。まさに、注目、です。イエス様は、全員に向きあって「あなたがたに平和があるように」と言ってくださるお方です。その平和は弟子たちが本当に欲しかったものでした。単なる寂しさとも違う、後悔だけでもない、死刑になった男に属していた者として扱われる恐怖だけでもない。鍵をかけて閉じこもっているしかない内向きな恐れ。外も、未来も、今はもう興味がない。イエス様は鍵を破壊して来られたのではありません。その部屋の鍵は次の場面にも出てくるからです。鍵をかけたままの弟子たちに近づき、その心の奥に語り掛けたのです。「主を見て喜んだ」。いつぶりの喜びだったのでしょうか。それだけが喜びを奪い、それだけが彼らに部屋の鍵をかけさせる、イエス様の死と自分たちの今。もう何も新しいことは起きてほしくない、入ってきてほしくない。そして弟子たちは聖霊を受けて神の力に包まれて遣わされました。十字架の傷跡の残る御手から手渡すように、罪の赦しを携えさせて。十字架と復活のキリストが喜びと共に伝えられるように。
その時、弟子の1人、トマスはそこにいませんでした。彼は、イエス様が十字架で死ぬならば一緒に死のうではないかと口にし皆に呼びかけていたほどの思いをもっていました。しかし全ての人と同様、思いと行動そして実績は正比例しないものです。申し訳なさ。悔しさ。主を見て喜んでいる弟子たちに喜べない心があります。彼にとっては十字架の傷を受けて死なれたイエス様と、のうのうと生きている自分が許しがたく、イエス様と自分の関係はそのようにしか考えることはできなかったのでしょう。イエス様はトマスが弟子たちと一緒にいる日曜日に現れてくださいました。トマスの言葉とそれを発した心に触れるように応えてくださいました。トマスの心の傷である十字架の傷を、その心も罪も人生全てをも受け入れるために神がなさった近づき方として示してくださったのです。罪の赦しの十字架に誰も一緒にいることはできませんでした。しかし、その傷を無かったことにするのではなく、その傷によって人が癒され神と出会うために、復活のイエス様には傷が消えずに残っているのです。