戦没者名鑑と平和記念会堂(旧会堂)
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【前略】
 米国アラバマ州バーミンガム市にあるストッカム・メモリアル教会の牧師D.Y. レジスター博士は、太平洋戦争で息子のマーチンを失い、その記念として教会の構内に会館を建て、壁の大理石にマーチンほか同教会の戦没キリスト者青年12名の名前と略歴を刻み込んだ。そして敵国側の者もと思い立ち、日本キリスト教青年会同盟のその斡旋を依頼してきた。(日本YMCA)同盟では5か月余り慎重に審議した上で全国から12名の戦没した基督者青年を選び、1948年8月15日に写真と略歴を先方に送った。
 発送の当日、山本忠興(日本基督教)青年会同盟委員長と斎藤惣一総主事の招待に応じて、12名の遺族の会が(日本YMCA)同盟会館で開かれた。これを平和記念礼拝の第1回とするもののようである。その折り、山本忠興・斎藤惣一・小崎道雄の諸氏の提案で、日本でも記念会堂を建てて戦没基督者の名を銘記して世界平和の一礎石とすべく建設委員が選ばれ、委員会が発足したのである。建設委員長には栗原陽太郎牧師が就任し、1949年4月にその趣意書を全地域の教区に発送した。それは平和記念会堂および付随する建物を中央農村強化研究所(現、農村伝道神学校)構内に建設し各種の事業を行うという壮大な計画であった。
 しかし建築資金の5百万円はなかなか集まらず、約8年経過した1957年10月13日にようやく献堂式が行われた。建物はできたものの会堂内部は粗壁で未完成の状態であった。しかし戦没キリスト者名鑑の登録に応じた方は230名に及び、この中には米国のマーチン君ほか12名含まれている。1967年に名鑑登録の再募集を行い、百名の方々が応募された。
 会堂ができるまでは毎年8月15日に遺族が集まり、建設予定地に平和記念会堂建設用地と記した柱を立て、その下で記念礼拝を捧げていた。献堂式の半年前に農村伝道神学校は鶴川に移転したため協議の末、この会堂は日野台教会の所有として使用管理することを決定した。1966年に委員会は解散し、名簿および平和記念会堂の事業一切が日野台教会に引き継がれた。
【中略】
今回(1999年)、会堂を建て直すに際して十分な配慮のもとに平和記念室を設け、その壁面にこの名鑑を掲げている。

出典:日野台教会五十年のあゆみ(2000.9.24)
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