「君のいない世界など」家次恵太郎牧師
ルカによる福音書9章28~36節
イエス様が3人の弟子を連れて山の上に行かれました。イエス様はこのように幾度となく、人々を離れた山に登られたことと思われます。それは祈るため、つまり父なる神との特別に取り分けて持つためです。弟子たちにとって、そこは論争を挑む律法学者もいない、大勢の群衆もいない、そこは現実から逃れられる時間でもあったことでしょう。そこで弟子たちは世を照らす光に遭遇しました。イエス様の姿が、この世の何にも比較できないほどの、光輝く姿に変わったのです。それだけはなく、モーセとエリヤという旧約聖書を代表する二人が現れてイエス様と語り合ったというのです。二人が語り終わり姿が見えなくなろうとしたとき、ペトロは瞬間的に口を開きます。「先生、わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのためです」(33節)。住んで留まってもらいたいということでしょう。無理があります。聖書もこの発言を「ペトロは自分でも何を言っているのか、分からなかったのである」と間髪入れずに説明しています。正当性や実現可能性はわからなくとも、何を言っているかはわかって発言するものですが、そこに心が体を追い越すように言葉が出たのです。しかし、ペトロが自分でも何を言っているのかわからなくても、どういう気持ちになったかはわかる気がします。この目に見える輝く世界に留まりたかったのでしょう。イエス様は問答無用の輝きを放って、誰が見てもメシアとわかる。悪意や攻撃を受けることもない。幼いころから語り伝えられ尊敬し続けたモーセとエリヤまでいて、聖書の神の栄光が全自動で実現しているようなその世界。山の下の煩わしい日常、人との関わり、苦難のある日々。もう山の下で待っている他の弟子たちのことも、人々のことも頭から飛んでいます。
そこに父なる神様からの答えはこう響きました「これはわたしの愛する子、選ばれた者。これに聞け」(35節)。仮小屋建築計画の可否についてではありません。聞け、つまり、神のなさること、心を知るにはイエス様を見よ。イエス様によって、私たちの生きる一日が必ず意味を持つ。旧約聖書から続いている神の救いの計画はこの方によって実現するからです。モーセ、エリヤが語り合った「エルサレムで迎えようとしている最期」、即ち十字架によって人の罪の赦しを成し遂げ、神の愛のもとに取り戻すことです。それはどこかの山の上ではありません。イエス様は小屋の中で輝いていて訪れなくてはならないような存在ではありません。この地上、この生活、この苦難ある日々のなかで、神様の光で照らし、その中を歩ませてくださるのです。イエス様は下山するのです。弟子たちと共に。弟子たちも、私たちも、一週間共にいる誰かを愛し助けイエス様の御心のためにこの世界にいます。そこにあの山で見せられた主の復活の光、愛と恵みの支配の輝きが確かに届くのです。広がるのです。そのためにイエス様は十字架へと歩みを進めるのです。私たちはこの地上で必要とされて生きている存在です。あなたのいない世界は、あのキリストの光があるべき場所にないのと同じようだ。そのように私たちの地上の歩みを助け用いてくださる。私たちが生きる毎日に共におられるキリストが、一人も軽んじることなく、あなたと誰かを照らす。必ず最善に守ってくださる。どんな小さなことの中にも。祈りの先に、目を開けた時、その平安がありますように。