「主はすぐ近くにおられます」 家次早紀牧師
フィリピの信徒への手紙4章4~9節
パウロはフィリピの信徒への手紙4章5節において、「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。」と勧めています。この「広い心」という言葉は、実は原文を読むと、本当は一言では表すことができないような、非常に深い意味をもつ言葉であることが分かります。その意味を知るために、パウロが他の手紙の中でこの言葉をどのように用いて語っているのかを見てみたいと思います。テトスへの手紙3章2節をお読みいたします。「また、だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを。」この節において語られていること全体が、本日の箇所で言う「広い心」が意味することであると考えられているのです。つまり、だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接する、そういうあなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい、ということです。しかし、多くの人がそうであり、ここにいる私たちもそうですが、このパウロの話を聞いてまず思うことは、「とてもじゃないけれど、私の心にはそのような広さは無い。」ということではないでしょうか。
なぜパウロは、辛い獄中生活、そして信頼していた人々と心が通じ合わなくなるという苦難の中でそのような広い心を持つということに立ち続けることができたのでしょうか。フィリピの信徒への手紙4章5節には、「主はすぐ近くにおられます」と記されています。主はすぐ近くにおられる、誰が裏切ろうと、誰が自分を粗末に扱かおうと、主イエス・キリストは私のそばにいてくださる、慈しみの眼差しで捉え続けてくださる、この確かな希望こそがパウロを支えていました。冷たい牢獄の中で、人の冷たさや自分自身の至らなさを痛いほどに感じながら、同時に、主イエス・キリストがこんな時でも側にいてくださるのだ、という深い惠みに生かされながら過ごしていたのです。
これは、私たちにも与えられている恵みです。目には見えなくとも、手で触れることはできなくとも、主イエス・キリストはすぐそばにおられます。私たちが今、どんな悩みをかかえ、どんな苦しみを味わっているのかを全てご存じです。そして、苦難の時、私たちに必要な御手を差し延べながら、常に支えてくださっているのです。パウロが勧めていた「広い心」、それはまさに、イエス様のお姿そのものと言えるでしょう。本来ならば、神の怒りを受けて当然の私たちを、神は憐れみ、共に生きようと手を差し伸べて下さいました。その神の愛が見える形となったのが、クリスマスの出来事です。かつて旧約聖書イザヤ書において預言されていた「主は我々と共におられる」というみ言葉が、見える形で成就したのです。