説教要旨

2025年3月2日主日礼拝説教要旨

「イエスの方へ進んだ」 家次恵太郎牧師

マタイによる福音書14章22~36節

 

 嵐の湖を、イエス様の弟子たちが弟子たちだけで漕ぎ悩んでいます。

危険から来る不安、不安から来る焦り、焦っても直面するのは自分たちでは対処できない無力感であるでしょう。キリスト者は、信仰に生きながらも、その不安に沈んでいくことがあります。実際、状況が苦しいのですから、苦しみの方に目が向いてしますばかりになるのは仕方ありません。

しかし、聖書を読み進めると、イエス様が湖の上を歩いて、弟子たちのところに来てくださいました。湖はその足の下です。「湖」と書いてありますが、この言葉は「海」という言葉です。荒れ狂う海、人間を遥かに超えたその得体の知れない力の前に、自分でなんとかできるという人はいません。その海を足の下に踏みつけているキリストの姿が見えました。わたしはここにいる、確かに共にいるのだと語りかけるイエス様はこのようなお方です。世の暗闇の力、困難極まりない八方塞がりの状況、辛い心の内から、私たちを確かに支え、助けることがおできになる方なのです。

ペトロはイエス様のもとにいくことを願いました。イエス様の言葉を求めるペトロに、「来なさい」という御言葉をもって招いてくださいます。

しかしペトロは途中で、風と波に気が付いて怖くなり、沈み始めます。ペトロが湖の上を歩いているときよりも、私たちに身近な存在として感じられませんか。私たちもイエス様に従って歩き出したつもりでも、途上で怖くなり、心も体もどうにも負けてしまい、沈んでいくことがあるからです。

「主よ、助けてください」。疑ってなどいられません。信じられるか信じられないかなどと言っている場合ではありません。主よ、助けてくださいとしか言えません。しかしそれでいいのです。そこに、イエス様は手を伸ばしてつかまえてくださいました。沈ませまいとして手を伸ばして下さるキリストはペトロを確かにつかまえてくださり、ペトロは沈んでいかなかった、これは、イエス様が生きて働かれる全ての生活の場所で起こされる事実なのだと聖書ははっきりと伝えるのです。

ペトロがイエス様を探してつかまえたというのではありません。イエス様がペトロをつかまえてくださったのです。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」という言葉は、沈みゆくペトロに向かって語ったのではありません。手をつかまえ決して沈まないようにしてくださりながら語るのです。沈み始め、沈みゆくしかない、悲しい存在が、主の御手の中にしっかりと引き受けられている。これは福音です。一方的な恵みなのです。私たちの目に見えない現実として、確かに起こされているのです。キリストは確かにいてくださり、海を足下にして私たちをつかまえていてくださいます。私たちは沈みかけても、イエス様は決して沈むことはありません。この方に、どうか、助けていただきましょう。

2025年2月23日主日礼拝説教要旨

「小犬のように」 家次早紀牧師

マタイによる福音書15章21~31節

人生は、一瞬にして変わってしまうことがあります。昨日まであった当たり前の日常が、何の前触れもなく、急に失われてしまうことがあります。この聖書箇所に登場した一人の母親も、そのような経験をした一人なのではないでしょうか。彼女はカナン人です。つまり、彼女はユダヤ人からみれば神を信じていない異邦人です。しかし、それにもかかわらず、彼女はどこかでイエス様の評判と、イエス様が宣べ伝えておられる神についての話を耳にして、心に留めていたようなのです。ある日、イエス様が近くまでこられたという噂を聞きつけると、彼女はすぐさまイエス様のもとへと急ぎました。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」ところがです。この母親が、必死に叫んでいるのにも関わらず、イエス様は何もおっしゃらないのです。そして、しばらくたってようやく口を開かれました。「イエスが、『子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない』とお答えになると、女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです』」イエス様が言われた「子どもたち」というのはユダヤ人のことであり、「小犬」とは、この母親のような異邦人のことです。この出来事、そして、その後のイエス様の言葉に、戸惑ったことがある方は多いのではないでしょうか。

しかし、この母親は、そうとは考えませんでした。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と。そう言って、自分はイエス様が言われた通りパンを受けるべき「子供」ではなく、「小犬」であると認めたのです。彼女は、自分が神の恵みを当然のごとくいただけるものではないと言うことを受け入れていたのです

実は、イエス様とこの母親が用いている「小犬」という言葉は、家の中で、飼い主に飼われている犬を指す言葉なのです。そして、この母親が言った「小犬が、主人の食卓から落ちるパン屑はいただく」という状況は、実は、小犬と主人である飼い主の間に信頼関係がなければ成り立たないのです。つまり、飼い主が、小犬が落ちているパン屑を食べた際に、誰がお前に食べていいと言って、なんて意地汚いんだといって罵るような人であったならば、小犬は、例え目の前にパン屑が落ちてきたとしても、飼い主を恐れて決して食べたりしないでしょう。しかし、小犬が食卓から落ちたパン屑を食べることを、赦し受け入れてくれるような飼い主であれば、小犬は喜んで、そのパン屑を食べに来るのです。イエス様に会いに来た、この母親は、わたしはイエス様を、そのような主人だと信じておりますと告白しているのです。わたしは確かに小犬であって、食卓について、パンをいただける子どもたちと同じではない。これまで神を神とも思わず、生きてきた。けれど、イエス様、あなたはパン屑をいただきにくる私のような小犬を、今初めて神を見出し、信じようとしている私を、決して意地汚いと言って罵らず、決して追い返さず、憐れみの眼差しを注いでくださる、そう信じています、と告白しているのです。飼い主であるイエス様を心から信頼している、一匹の小犬のように。そして、イエス様はこの母親の言葉に信仰をみてくださいました。そして願いに応えて、この母親を憐れみ、娘をいやしてくださったのです。

2025年2月16日主日礼拝説教要旨

「天には大きな報いがある」 家次恵太郎牧師

マタイによる福音書5章1~12節

 

「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」(3節)。「貧しい」という言葉と、「幸い」のギャップ。本当にそれは幸いであるのか、どのようにか。御言葉を受け取る時に、戸惑うかもしれません。

 誰であれ、心に不足を感じ、貧しければ、苦しいものです。確かに、人生は心がつくると言えるほど、その積み重ねは毎日を左右します。しかし、ここでの「心」は「霊」をあらわすとも言われ、人間の生の奥の奥、根本の貧しさです。根源的な貧しさ、足りなさです。

 考えてみれば、私たちは何か持っているのでしょうか。実際、私たちの支配下におけるものは何もありません。何であれ時が来れば手の指の間をすり抜けていくように、私たちの所有に留まることはありません。

逆に、確かに持っている、といえるのは罪と死です。罪は私たちの罪であり、その重荷を負わざるを得ません。そして私たちは、自分が生きているようで、命をどうすることもできませんから、体の死を迎える前から死を身にまとっているといえます。

実に、心の貧しい人々であり、根源的な貧しさを抱えている人々です。

 

そんな私たちが、その貧しさを抱えながら、イエス様のものにたどり着いたのです。その貧しさに直面し、罪と死に直面し、たどり着いたのはイエス様のもとだったのです。それは幸いです。天の国はそこから始まっています。貧しいからこそたどり着けた救いがある。神様が共にいてくださること、守ってくださること、何が指の間からすり抜けていったとしても、その寂しい手をイエス様がとってくださる。支えてくださるのです。天の国はその人たちのものです。

 

天の国は神様の完全な救いのあるところです。そこでの生活は、今既に始まっているのです。いつかその人たちのものになるだろう、ではありません。神様はもう既に共にいてくださっていますから。何も持っていないあなたに、生きよと言って下さる方が全てを与えてくださる。主の手から受け取りなおす人生がある。心満ちる幸いがあります。もっと、喜んでいいのではないでしょうか。喜ぶべき、安心すべきことが神様の方から来ている、起こされていると知られます。

その貧しさの日々の先に、必ずキリストのもとにたどり着かせてくださる、神の導きがあります。そのとき、幸いという報いが準備されていたのだと、知るのです。あたたかく、安らかに、イエス様のお側で。

2025年2月9日主日礼拝説教要旨

「神様の火」 家次恵太郎牧師

イザヤ書6章1~7節

イザヤの召命です。預言者イザヤが神の言葉とメッセージを語り伝えて生きていく、その初めはこのようであったという出来事でした。神の言葉を語ることは人間にはできません。それが可能だとすれば、その唇が神によって清められなければなりません。神のものとされなければなりません。

イザヤは主なる神が王座に座っておられるのを見ました。移り変わり命尽きるこの世の王ではなく、永遠に変わることのないまことの王が座している。それだけで十分なほどに、神様が神様としていかなるものからも分かたれた聖なるご自身を明らかにされたのです。

そしてイザヤが見た御使いセラフィムは顔を覆っていました。なぜでしょうか。それほどまで神が聖なる方だからです。旧約聖書には、主なる神と顔と顔を合わせれば死んでしまう、と繰り返されています。

 その神様の聖性が周囲の全てを満たし、揺り動かしました。そのことに直面した時、イザヤは、「災いだ、わたしは滅ぼされる」と語りました。もうダメだと。そういう他はないほどに神が聖なる方であることに貫かれていました。人間は神の御前で何の言い逃れもできません。本当に神が聖なる方であり罪と共存なさらないことがわかるならば、人間は恐れおののく他はないでしょう。

汚れた唇の者、など「唇」と繰り返されているのは、言葉を意味しています。そして言葉は言葉で終わりません。言葉は同時に行為であり出来事を生み出すことを私たちも知っています。他者に対して、自分に対して、何らかの出来事を起こしてしまうものです。その強大な力が罪の汚れをまとっていて手に負えないし傷つけ合い続けるのも人間のありのままの姿です。そこに神の聖性によって裁きをもたらされるならば、滅ぼされるしか予測できないでしょう。

しかし、そのとき、セラフィムが神殿の祭壇から火鋏でとった炭火をもってきて、唇にあてた。焼かれたということです。火は小さくても全てを変えてしまうほどの力を持ちます。それは私たちも、例えば料理において生肉が焼けて食べられる状態になるという日常の経験でもわかります。

そして罪が赦されたと語られるのです。神様の火が罪を焼き尽くし、赦される。これはイエス・キリストの十字架をあらわしています。神殿の祭壇は、罪の赦しのためのいけにえ、犠牲の動物が捧げられる場所。キリストはただ一度きり、完全なささげものとしてご自身を人間の罪の赦しのためのいけにえとしておささげになったのです。この事実が私たちに迫りきて、唇を焼くように罪を洗い清めてくださいます。新しくしてくださいます。これは神の御業です。災いだ、わたしは滅ぼされるとしか言いようがないわたしたちの罪を焼き、焼き尽くす主の十字架があります。十字架にかかられたイエス様が触れてくださいます。そのとき、神に根拠をもって、あなたの罪は赦されたという言葉を聞き、神の福音の言葉が唇に灯され、賛美し祈る者とされます。自分を生かしている御言葉を、他者にも、自分にも、語り伝える人とされます。神様の火によって、キリストによってそれは可能とされる恵みなのです。

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