説教要旨

2024年6月30日説教要旨

「ああ、よかった」家次恵太郎牧師

使徒言行録9章36~43節

 

キリストが私たちを通して何をされるかということが大切です。真の行為者は誰であるのか。非常に見失いやすい事です。目に見えないからです。しかし、ペトロに期待しペトロがなした奇跡を、全能の神が生きておられるキリストの御業として、ペトロの内に働く聖霊の業として行っていることとして記します。だから、最後には「主を信じた」となるのです。こうなれれば、よかったと言えるのではないでしょうか。

こうなれないとき、いつまでも満たされないし穴が空いたようになっている心にも振り回され辛いものがあるのではないでしょうか。

奇跡的なことが起きることだけを期待するならば、起こらなかったら何も起きていないに等しいので主は信じません。しかし、キリストが生きる場に確かに関わってくださると

 タビタという人が亡くなったという出来事に悲しみが広がりました。ペトロが近くにいることを知って呼び、タビタが生前に作ってくれた衣類を見せて泣きます。足りないから作ってくれたのでしょう。見返りは求めていなかったのでしょう。人の心には、誰かの思いやその人の優しい心がアルバムのように挟まって、人生になっていきます。素直で、精一杯の、ペトロへの紹介です。ペトロはその記憶を追体験することはできません。一緒に過ごした時間なしには本当にはその関係性はわからない。

 

しかし、ペトロは祈りと共に言います。「タビタ、起きなさい」。キリストの命のご支配がその人を起こす、つまり語り掛けて動かすことがおできになるのです。神の国で起きることです。その前味を味わうことが信仰生活なのでしょう。やがてこの

だから主を信じた。この人生には主が関わってくださる。辛い別れとなった誰かにも、主の手と言葉は届き、必ず主が関わってくださる。会いに来られる。起きなさいと。起きて、まず何を見るのでしょうか。共におられるイエス様を見ることになるのです。よかった、と思います。神の国においてのその時を待ち望みながら、既に私たちもそのような礼拝と信仰生活の一瞬一瞬に導かれ続けます。悪夢のような時間の中でも、ああ、よかったと言えるとすれば、本当に主が相対して起こしてくださっている、人ではなく誰でもなく、主のなさることだったと信じられるようにされたならです。それは恵みのご支配といえるものだったと、心を向けられたなら。

2024年6月23日説教要旨

「ひとりぼっちということ」家次恵太郎牧師

              ヨナ書4章1~11節

「お前は怒るが、それは正しいことか。」

 怒るヨナはこの問いのもとに立つことになります。だから孤独なのではありません。

怒りの中はひとりぼっちなのです。怒っている時、人はとても正しいので、とても他が間違っているので、ひとりぼっちなのです。そういう世界をつ売り出してしまったから、その道を走るしかなくなる。ひとりで。

「もちろんです」と。ヨナは言いました。「怒りのあまり死にたいくらいです」。

 

ヨナは預言者で、ニネベの都の人々が悪を行ってきたにもかかわらず、神様が悔い改めへの招きと赦しをお与えになった。滅びなかった。そのことと、それを選ばれる神に、死ぬほど怒っているのです。

神さまはヨナと関わり続けていました。とうごまの木がヨナの側に生えたらヨナは喜び、不満は消え、大切に思いました。しかしその木が枯れて消えるのを見ました。その心に、ならばわたしも同じだよ、と伝えてくださる言葉があります。

「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」(11節)。

神様も心を痛められるのです。もしニネベが滅びてしまうならば。たとえそこにいるのが右も左もわきまえぬ人間であろうが。

「惜しまず」とはかわいそうに思うという意味です。神のその恵みと憐れみの中に自分もいるのです。誰もが神の痛みなのです。独り子キリストが十字架にかかるほどに。

聖書はそのあとのヨナの姿も返事も記していません。神の思いを聞いて、だから変化した、となるわけではない。わたしたちもまた繰り返しその問いの前に立つのでしょう。問われるのでしょう。確かに怒るだけ正しい何かをもって生活の場で孤独になっているでしょう。しかし、それは正しいことか、と。そんなことはわかっている、わかって思っている、そんなことを言っていたら秩序が成り立たない、様々な気持ちになるでしょう。繰り返し、問われては解決しないかもしれない。しかし、そのとき、ひとりぼっちではない。「お前は怒るが」知っていてくださる方がおられる。

2024年6月16日説教要旨

「水分か水源か」 家次恵太郎牧師

ヨハネによる福音書4章5~26節

 人は渇くものです。肉体的な渇きに水分補給は欠かせません。どれくらい欠かせないかと言えば命にかかわるのです。ですから水分補給をなしに生きていこうとはしないわけです。精神的な渇きもあります。悲惨さと満たされなさ、生きづらさがあります。イエス様は、渇きを覚えて生きている一人の女性と出会ったとき、言いました。

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」(1315節)

わたしが与える水がある。それは水分として尽きてはくみ、飲み、続けなくてはならないものではない。水分ならば何だって渇くというのです。肉体であろうと精神であろうと。終わる、切れる。尽きる。続かない。だから私たちの人生はこんなにも渇きと隣り合わせで苦しいのでしょう。

毎日必死に得ようとしているはずなのにいつの間にか渇きに戻され、そのあとも自分で得るために苦労してその水が確かに人生にはある。しかしイエス様は新しい水源を与えようとしておられる。イエス様の与える水を飲む人はその人の内から命の水がわき出るというのです。水分を取りに行く側から、水源をもつ者、つまり渇きを癒されたならばその癒す方と共にあるようにしてくださるのです。これは肉体でも精神でもない、もっと根本、言うなれば命の渇きの話です。救いは何かで失われるものではなく、切り離されるものでもない。命が渇いていくとき、つまり渇いていくもともとの自分から来る渇き、辛さ、罪は、自分の内に与えられている新しい命がそれを潤します。隠すことなく、何が渇き切っているのか知られている者としてです。

そして、その人の内からわき出るのならば、他者にも分け与えるものとされるのです。枯れ井戸から泥水をまき散らすのではなく、命の水を求め、与えられ、その出所を知っている者として、礼拝者として。他者のいる世界で生きていくのです。キリストに根本から潤され守られながら。主はそのような礼拝を求めて、礼拝者を求めて、今日もご自分の命を指しだしてくださっています。生きよ、その水を飲んで、倒れそうな時にさえ奥の奥では潤さていなさいと働きかけてくださいます。主が命を捨てられたは、そうです十字架の上で渇かれたのは、わたしたちがもはや渇かず、神によって生き始め癒され続ける者とされるためだったのです。その水をくださいと、今日も共に求めたいのです。

2024年6月14日(金) 讃美歌を歌う会 説教要旨

家次早紀牧師

イザヤ書2章4節


「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。

彼らは剣を打ち直して鋤とし

槍を打ち直して鎌とする。

国は国に向かって剣を上げず

もはや戦うことを学ばない。」 

 

剣と槍は、前に前に進みながら相手を傷つけるためのものです。

 

鋤や鎌は、後ろに後ろに下がりながら作物を整え、人を生かすためにあります。

 

人の言葉も行動も、その両者になり得ます。

 

当時も、前者が奨励されてきた時代でした。

しかし、神によって御言葉のように変えられていくことを求めましょう。

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