「あなたがたも離れていきたいか」家次恵太郎牧師
ヨハネによる福音書6章60~71節
「命を与えるのは“霊”である。 肉は何の役にも立たない。 わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(63節)。「肉」とはこの世で食べるパンを含む、目に見える必要のことです。イエス様は人が毎日食べるパンの必要性を軽視していたのでしょうか。とんでもない。その逆なのです。6章の初めには大群衆全員に5つのパンと2匹の魚を分け与えた話が出てきます。むしろ弟子たちはそのパンの個数では役に立たない、群衆を解散させる結論が妥当でしょうと考えていたのです。しかしイエス様は毎日の糧としての食べ物を一人残らず満腹するまで与えてくださいました。その人数に渡していくということは、大変なことです。ここにはその日の食事の必要を満たして生かす神の愛が見えます。しかし同時にその出来事の奥にあったのも、今日の箇所でイエス様が話しているのと同じ、霊による命、つまり神と共にあり御言葉を与えられるという命のパンを与えて生かす命なのです。パンそのものは死活問題として大事ですがイエス様がなんとしても与えようとしておられるのはそのパンが何の役にも立たなくなったとしても、失われない命の力をもっているのです。
イエス様は、どんなにかその命を受け取ってほしかったか。私たちがその必要な肉の糧をどんなに必要としているか、それを得た時どんなにうれしいか、全て誰よりわかっておられるのです。しかし、それで終わってしまうのであれば、その人自身が、いつか失われていくものを恐れて生きる人生を歩むことになり続けると、わかっているのです。
パンを食べることは代わることはできません。そのように信じるということも誰かが代わることはきません。神さまはなんとしても本人に受けと取ってほしいのです。そのためにイエス様は十時間おいてその身をパンとして与えて下さり、赦しと回復の中を生きられるようにしてくださったのです。その意味で、代わりに、身代わりになってくださったのがイエス様の十字架の死でした。そこに向かっているお方としてしか、わたしを食べよという言葉は言えません。主の命の重みがかかった言葉の牛に、私たちは居場所をもっています。
イエス様が無限にパンをくれる人でなく、自分を与えて神を信じて生かされることへ全てをかけて招いている方だと知って、期待が外れた多くの多くの人々が離れていきました。「あなたがたも離れていきたいか」と聞くイエス様は、ご自分から私たちから離れていくことをなさいません。パンとして与えたということはもう後戻りすること名は無いのです。一つになってくださっているということですから。私から離れていきたいですか、とイエス様に聞いたら、主の十字架の愛が見えてくることでしょう。私たちを引き受け、生かす、主の命は、この方との愛の交わりの中で、あらゆる孤独を超えて、何もかも失ってもなお、生かすものなのです。「あなたがたも離れていきたいか」。私たちも問いに決断をもって答えたいと願います。