説教要旨

2023年9月10日 説教要旨

「キリストの十字架だけを」 家次恵太郎牧師

             サムエル記下18章31~19章1節

 代わってあげたい。旧約聖書から、ダビデの嘆きを聞きました。人間が生きる中で、時として避けられず直面する嘆きです。苦しむ家族、友のために、代わってあげたいという願いが生まれます。しかし、代わってはあげられないのです。仕事を代わったりなどは他者にもできるかもしれません。しかしその誰かの根底を揺るがす出来事とその悲しみ、その影響に関しては代わってあげることができないのです。この事実に気が付くのです。自分がそれまで経験してきた自分自身に関する苦しみ、私たちはその大きさを覚えています。しかし、それを凌駕される経験をします。苦しむ姿、倒れていく姿、涙。なんでしょうか、私たちが見ている人生とは。孤独と罪の支配そのものでしょうか。そうとしか見えない時を、私たちは時に長く経験するものです。

ダビデもそうでした。息子アブサロムがイスラエル王国内でダビデ側の軍勢に反旗を翻し、戦闘となりました。ダビデはアブサロムの命は奪はない戦闘終結を願いましたが、

代われないこと、自分でなくその人なのだという思い。その思いも誰も代わることはできません。実を震わせ、上野部屋に上り、泣くのです。「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。」(19:1)聖書は、ダビデの行動と言葉に注目させます。一つの繋がった感情に注目させるのです。動きと言葉に含まれている痛みと、太陽が沈むように影が落ちていく心に

代わりに死ぬ、という不可能を行わる仕方であらゆる罪と不条理に対して救いをもたらされたのはイエス様です。父なる神が独り子イエス・キリストを身代わりの死のためにお与えになった。この事実は重いです。私たちは時に定型文的に考えてはいないでしょうか。ダビデの実を震わせ涙を溢れさせ声を上げさえていたのがアブサロムへの愛だとするならば、その愛を神は私たちに向けておられると言っていいのではないでしょうか。イエス様は私たちに向けておられると信じて受け取りたいと思うのです。この上ない、願い。それが御心と呼ばれる神の心です。どこで知るのか。キリストの十字架にそれを見るのです。十字架の上で、私たちの苦難は、そして代われなかったし変えられなかった誰かの苦難は、既に受け止められています。イエス様によって神は傷み、痛みはキリストのものとされています。ここに、本当は確かに慰めがあります。どうしても私たちにはわかる時が少ないだけで。

神が御子を与えられた。確かに人の心と神様の心は違うでしょう。そして救いと復活に向かう十字架は痛みに留まる話ではないでしょう。しかし、これ以上の痛みはないところまで、誰も代わってくれないし自分も代わることはできない痛みまで、神は通られたのです。降ってこられたのです。そのことと今の自分の悲しみや過去の傷は関係なく思えるかもしれません。しかし、その神以外に自分自身と他の全ての誰かを両方引き受けられる方はおられないのです。実を震わせ泣くのなら、その共感と心強さの中で泣けるのです。それは赦しと希望を与える主の十字架の姿と苦しみが合わせさせていただけるときです。代わりになれなかった全て、また誰も代わってくれない全てをこそ、イエス様と共に担い、考えてみませんか。

2023年9月3日 説教要旨

「お返しができないという幸い」 家次恵太郎牧師

                ルカによる福音書14714

 上席、末席など、座る席によってそのコミュニティ内の序列が表現されるというのは、考えてみれば妙なことです。給仕のために動きやすい位置とか色々意味合いはあるでしょうけれど、動物も高い所にいる者ほど偉いとされていてそれを自他ともに認識しているなど、人間も変わらないところなのでしょう。人の心もそうですが、現代もそうですが聖書の時代にもそのようでした。上席を選んで座る、つまり部屋に入ってすぐその席に向かうわけですから、自分こそ上席に相応しいと思っているということです。それもそのはず、彼らはファリサイ派や律法学者など、当時の宗教的指導者でした。神に救われるべきものとして、救いから遠い人々を設定してあり見下していたのでした。そうした記述は福音書によく出てきます。しかし、それは誰が決めたのでしょうか。イエス様は様々にお話しをされます。その意味は、あなたたちの思った通りになどならない、誰でも高ぶる者は低められ、へりくだるものは高められる。先と思っていたら後になり、後と思っていたら先になるということです。イエス様は食事会での席の選び方から、婚宴に招かれたらと語りなおします。婚宴とか祝宴とかは、聖書において神の国を表すことが多いのです。今回もそうです。神の御前で、上席も末席もあなたがたが決めるものではないと言われるのです。全ての人の救い主がそう言われるのです。心をご存じです。問題は人の心の奥なのであって、形だけ末席に座っていて、本当は自分はそんな席に相応しくないから上席に案内されるに違いない、と思っているならばそれも違うでしょう。

そして、お返しが出来ない人たちを招きなさい。報いは神から来るから、人からの報いを求めて生きるのをやめなさいと言われているのです。人は小さいころから、私のための誰かを求めて、期待して、会話したり心を勘ぐることがありますが、人への期待とその報いを入れる箱にはたいてい穴が空いていると考えていいでしょう。どこまでいっても満足などしない。人は自分の思ったようには動かないからです。そして、お返しを求めて行動して生きていると、そのようなギブンドテイクのことばかり考えるようになる。人間関係は損得勘定に支配された取り引きと根回しになっていきます。しかしながらこれも、お返しが出来ない人を招くように、人を受け入れてよいことをしてきたぞ、他の人とは神の前で違ってくるぞと報いをもとめていたらどうでしょうか。おれも結局人からの報いを求めているに過ぎません。神様はもっと平安をくださる方です。人が与えられない平安で満たして、他者との交わりをつくり出してくださる方です。人間は罪に支配されながら、期待通りに生きられるでしょうか。期待して報われてを繰り返す人生がありますでしょうか。そうではないと思います。しかし、それでいい、報いは神に招かれ、キリストに担われて救われているという一転によって与えられていると気づかされるのです。足ることを学ぶのです。その時、お返しなどとてもできないけれど、神が招いてくださってここにいるのは私のことだと気づくでしょう。そのような信仰の喜びと安心へと、イエス様はわたしたち全員の席を用意するように待っていてくださるのです。お返しができないこと、つまり一方的な恵みに根底から支えられていること。そして人からの報いがすべてを決しはしないこと。世には無き幸いです。

2023年8月27日 説教要旨

2023/8/27(日)「君たちはどう生きるか」 家次早紀牧師

              ルカによる福音書1416

 イエス・キリストは私たちに「あなたはどう生きるか」と問いかけておられます。かつて、安息日の日にイエス・キリストはファリサイ派の議員に招かれ、その人の家を訪れました。ファリサイ派とは、人々が律法を極めて厳密に守ることを求めていた宗教的指導者たちのことです。この食事会の雰囲気は、和やかとはいいがたいものでした。「人々はイエスの様子をうかがっていた」(141節)ファリサイ派の人々は、イエス様のことをよく思っていませんでした。その理由の一つが、安息日の規定です。律法においては、週の七日目の土曜日は安息日とされており、その日には何の仕事もしてはならないと定められていました。ファリサイ派の人々はこれまでずっと、安息日にしてはいけない「仕事」に当たることは何かについて深く考えては、数多くの規定を作り、それらを守るよう教えていたのです。しかし、イエス様はたとえその日が安息日であっても、十八年間腰が曲がったままだった女性を癒すなど、彼らとは異なる行動をとっていました。その光景をみて、ファリサイ派の人々は腹を立てていました。そして、この日はとうとうイエス様を食事の席に呼びだして、注意深くその言動を観察していたのです。

 その食事の席で、イエス様の目の前に座っていたのは水腫を患っている人でした。イエスの前にいた人はおそらく重い水腫で、一目でわかるような症状だったと考えられています。ファリサイ派の人々は、イエス様を規定違反で捉えるために水腫の人をあえてこの場に呼んだのでしょう。

 そんな彼らの思いを悟られたのか、イエス様は彼らにこう問いかけられました。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」と。もちろん相手は律法の専門家ですから、安息日の律法について知らないはずがありません。しかし、彼らは答えることなく黙り込んでしまいました。なぜでしょう。実は、彼らは律法の専門家だからこそ、安息日の規定には例外があることを知っていたのです。例えば、今すぐに治療しないと命が危ない場合には、例えその日が安息日であったとしても治療を行ってよいことになっていました。イエス様は、そこをついたのです。彼らは、もし目の前で自分の息子が命を落としそうになったら、これは例外だと言って安息日であってもすぐに引き上げて助けるのでしょう。彼らに限らず、私たち人間は意識的せよ無意識的にせよ、自分にとって優先すべき人と、そうではない人を線引きしてしまっているところがあります。自分の家族に抱くのと同じ思いを、他人に抱くことは出来ない…そういう感情は誰でも持ち得るものでしょう。しかし、イエス様は違います。イエス様は、目の前にいた病人の苦しみに寄り添われました。そして、本来ならばイエス様は手を触れなくとも一言お命じになれば病を癒すことがお出来になるのですが、この時は敢えて病人の手を取ってから、癒してくださったと書かれています。この時、イエス様は「あなたは一人じゃない、あなたの苦しみはよく分かっている、これでもう大丈夫だよ」という思いを込めて、手を取ってくださったのではないかと思うのです。イエス様が問いかけられたのは、誰かの苦しみを、自分のこととして考えてなさい、自分の子どもや、家族のこととして考えてなさい、ということなのです。それが、神が私たちに望んでおられることであり、隣人を自分のように愛するということなのです。

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