説教要旨

2024年3月17日説教要旨

「光のあるうちに歩きなさい」家次恵太郎牧師 

ヨハネによる福音書12節20~36節 

 

 私たちは、苦しみから救ってくださいと祈っていいのです。

逃れの場を、道を、備えてくださる主に信頼して願うことが信仰生活の日常であっていいのです。

 

しかし、その上でなお、「神様の栄光が現わされますように」と願って自ら担う「この時」があるのだと思います。

 

人から強制されたのでもなく、覚悟や根性だけでもなくて。流れによってでもなく。

神を心で見て、信頼して。

 

今を、過去を、これからを通して、神様の最も素晴らしきことが現わされますようにと祈れたなら。そこで、心をあたたかく優しきことが行えたなら。

2024年3月10日説教要旨

「心いっぱいに」家次恵太郎牧師 
                        ヨハネによる福音書12節1~8節 

「過越祭の六日前」とあります。イエス様が十字架にかけられたのは過越祭の時ですから、イエス様の死が刻一刻と近づいている時です。その最後の一週間に、イエス様はマリアとマルタという姉妹、そして、その兄弟ラザロに会いに行きました。既にイエス様はユダヤの当局から指名手配されていました。弟子たちもマルタたちも、かつてイエス様が「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と語られた言葉を弟子たちも思い起こしたに違いありません。しかし、この食卓においては誰もそのことは口にしません。誰も触れません。目を向けたくはなかったのでしょう。だから、ごく普通の食事であることが不自然です。ところが、そこでマリアだけが、普通ではないことをしました。いつもイエス様が来られる時には、その御言葉に聞き入り、イエス様が何を考えて何を望んでおられるのか。そのことにひたすら耳を傾けてきたマリアです。だからこそ分かるのです。この方は、父なる神の御心に従って、私たちのために命を捧げ尽くそうとしておられる。マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油の壺を持って現れると、それをイエスの足に塗り自分の髪でその足を拭いました。一リトラもの香油を一気に使うということは、普通はしないのです。香りをつけるためならば数滴で十分です。あえてそのように用いるとするならばそれは埋葬の時でした。マリアは突然、死体の埋葬のようなことを始めたのです。

皆が造り上げてきた平静な雰囲気は完全に打ち壊されてしまいました。マリアの行為は皆が目を逸らしていた受難と死をはっきりと指し示していたからです。イエス様、あなたは本当に羊のために命を捨てるつもりでいらっしゃるのですね。マリアの無言の行いが、イエス様にそう語りかけていたのです。イエス様はマリアを咎める弟子のユダにこう言われました。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」(7節)。マリアはこの場面で一言も口にしていません。しかし、イエス様とマリアは分かり合っていた。父なる神を愛し、人を愛するゆえに、自分の命を捧げ尽くそうとしておられるイエス様を理解し、受難のキリストと正面から向き合っていたのはマリアでした。また、そのようなマリアであることをイエス様もわかっていてくださったのです。

 ユダは言いました。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」。言う通り三百デナリオン(当時の年収相当)あれば貧しい人々をどれだけ助けることができるでしょう。しかし、聖書は次のように続けるのです。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」。聖書は、彼が心にかけていたのは自分のことだ、と見抜いて言っているのです。キリストの弟子の群れの金入れ。「その中身をごまかしていた」ということは、つまりキリストの弟子の群れを自分の利益のために利用していたということです。弟子の一人としてイエス様と共にあることを、彼は自分の利益のために利用したのだ、ということです。どこまでいっても十分と感じることのない、利益への欲望によって。しかし、マリアは違っていたのです。私たちはもう十分受けている。イエス様から愛されて、愛されて、その命さえも分かち与えられるほどに愛されて。命さえ惜しまずに与えてくださるイエス様から、私たちはもう十分過ぎるぐらい受けていると。弟子の群れのサイフから金を抜くことを考えていたユダのかたわらで、マリアはイエス様の思いを心いっぱいに受け止めて、イエス様の御受難を指し示しながら、香油を注ぎ尽くしたのです。

2024年3月3日説教要旨

「あなたがたも離れていきたいか」家次恵太郎牧師 

ヨハネによる福音書6章60~71節 

 

「命を与えるのはである。 肉は何の役にも立たない。 わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(63節)。「肉」とはこの世で食べるパンを含む、目に見える必要のことです。イエス様は人が毎日食べるパンの必要性を軽視していたのでしょうか。とんでもない。その逆なのです。6章の初めには大群衆全員に5つのパンと2匹の魚を分け与えた話が出てきます。むしろ弟子たちはそのパンの個数では役に立たない、群衆を解散させる結論が妥当でしょうと考えていたのです。しかしイエス様は毎日の糧としての食べ物を一人残らず満腹するまで与えてくださいました。その人数に渡していくということは、大変なことです。ここにはその日の食事の必要を満たして生かす神の愛が見えます。しかし同時にその出来事の奥にあったのも、今日の箇所でイエス様が話しているのと同じ、霊による命、つまり神と共にあり御言葉を与えられるという命のパンを与えて生かす命なのです。パンそのものは死活問題として大事ですがイエス様がなんとしても与えようとしておられるのはそのパンが何の役にも立たなくなったとしても、失われない命の力をもっているのです。

 

イエス様は、どんなにかその命を受け取ってほしかったか。私たちがその必要な肉の糧をどんなに必要としているか、それを得た時どんなにうれしいか、全て誰よりわかっておられるのです。しかし、それで終わってしまうのであれば、その人自身が、いつか失われていくものを恐れて生きる人生を歩むことになり続けると、わかっているのです。

パンを食べることは代わることはできません。そのように信じるということも誰かが代わることはきません。神さまはなんとしても本人に受けと取ってほしいのです。そのためにイエス様は十時間おいてその身をパンとして与えて下さり、赦しと回復の中を生きられるようにしてくださったのです。その意味で、代わりに、身代わりになってくださったのがイエス様の十字架の死でした。そこに向かっているお方としてしか、わたしを食べよという言葉は言えません。主の命の重みがかかった言葉の牛に、私たちは居場所をもっています。

 

イエス様が無限にパンをくれる人でなく、自分を与えて神を信じて生かされることへ全てをかけて招いている方だと知って、期待が外れた多くの多くの人々が離れていきました。「あなたがたも離れていきたいか」と聞くイエス様は、ご自分から私たちから離れていくことをなさいません。パンとして与えたということはもう後戻りすること名は無いのです。一つになってくださっているということですから。私から離れていきたいですか、とイエス様に聞いたら、主の十字架の愛が見えてくることでしょう。私たちを引き受け、生かす、主の命は、この方との愛の交わりの中で、あらゆる孤独を超えて、何もかも失ってもなお、生かすものなのです。「あなたがたも離れていきたいか」。私たちも問いに決断をもって答えたいと願います。

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