説教要旨

2023年3月19日 受難節第4主日 説教要旨

「君のいない世界など」家次恵太郎牧師

             ルカによる福音書9章28~36節

 イエス様が3人の弟子を連れて山の上に行かれました。イエス様はこのように幾度となく、人々を離れた山に登られたことと思われます。それは祈るため、つまり父なる神との特別に取り分けて持つためです。弟子たちにとって、そこは論争を挑む律法学者もいない、大勢の群衆もいない、そこは現実から逃れられる時間でもあったことでしょう。そこで弟子たちは世を照らす光に遭遇しました。イエス様の姿が、この世の何にも比較できないほどの、光輝く姿に変わったのです。それだけはなく、モーセとエリヤという旧約聖書を代表する二人が現れてイエス様と語り合ったというのです。二人が語り終わり姿が見えなくなろうとしたとき、ペトロは瞬間的に口を開きます。「先生、わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのためです」(33節)。住んで留まってもらいたいということでしょう。無理があります。聖書もこの発言を「ペトロは自分でも何を言っているのか、分からなかったのである」と間髪入れずに説明しています。正当性や実現可能性はわからなくとも、何を言っているかはわかって発言するものですが、そこに心が体を追い越すように言葉が出たのです。しかし、ペトロが自分でも何を言っているのかわからなくても、どういう気持ちになったかはわかる気がします。この目に見える輝く世界に留まりたかったのでしょう。イエス様は問答無用の輝きを放って、誰が見てもメシアとわかる。悪意や攻撃を受けることもない。幼いころから語り伝えられ尊敬し続けたモーセとエリヤまでいて、聖書の神の栄光が全自動で実現しているようなその世界。山の下の煩わしい日常、人との関わり、苦難のある日々。もう山の下で待っている他の弟子たちのことも、人々のことも頭から飛んでいます。

 

そこに父なる神様からの答えはこう響きました「これはわたしの愛する子、選ばれた者。これに聞け」(35節)。仮小屋建築計画の可否についてではありません。聞け、つまり、神のなさること、心を知るにはイエス様を見よ。イエス様によって、私たちの生きる一日が必ず意味を持つ。旧約聖書から続いている神の救いの計画はこの方によって実現するからです。モーセ、エリヤが語り合った「エルサレムで迎えようとしている最期」、即ち十字架によって人の罪の赦しを成し遂げ、神の愛のもとに取り戻すことです。それはどこかの山の上ではありません。イエス様は小屋の中で輝いていて訪れなくてはならないような存在ではありません。この地上、この生活、この苦難ある日々のなかで、神様の光で照らし、その中を歩ませてくださるのです。イエス様は下山するのです。弟子たちと共に。弟子たちも、私たちも、一週間共にいる誰かを愛し助けイエス様の御心のためにこの世界にいます。そこにあの山で見せられた主の復活の光、愛と恵みの支配の輝きが確かに届くのです。広がるのです。そのためにイエス様は十字架へと歩みを進めるのです。私たちはこの地上で必要とされて生きている存在です。あなたのいない世界は、あのキリストの光があるべき場所にないのと同じようだ。そのように私たちの地上の歩みを助け用いてくださる。私たちが生きる毎日に共におられるキリストが、一人も軽んじることなく、あなたと誰かを照らす。必ず最善に守ってくださる。どんな小さなことの中にも。祈りの先に、目を開けた時、その平安がありますように。

2023年3月12日 受難節第3主日 説教要旨

「イエスは何者?」 家次早紀牧師
                 ルカによる福音書9章18~27節

 ある日、イエス様は12人の弟子たちに向かって、問いを投げかけられました。「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」ここで言われている群衆とは、イエス様が起こされた奇跡や、語られたみ言葉の噂を聞きつけて方々から集まってきた人々のことです。イエス様の弟子たちによれば、彼らはイエス様のことを「洗礼者ヨハネの生き返り」「エリヤの生き返り」「だれか昔の預言者が生き返り」などと言って、その影響力と指導力によって人々を導いたことで知られる人物の姿に重ねて見ていました。なぜなら、彼らはイエス様がその影響力と指導力によって、自分たちを導いて行ってくださることを期待していたからです。しかし、見方を変えれば、彼らは自分たちの期待に応えてくれる人であれば、それが誰であれ、飛びついていくのです。それ故に、自分たちの期待に応えてくれないと判断すれば、いとも簡単に離れていくのです。

 一方で、イエス様の弟子たちは、イエス様を何者だと考えていたのでしょう。イエス様は、弟子たちにも同じように問うておられました。「あなたがたは、わたしを何者だと言うのか。」すると、弟子のひとりであるペトロはこう答えたのです。「神からのメシアです」この「神からのメシアです」という言葉は、ギリシャ語の聖書を開くと、(トン クリストン トゥーセウー)と書かれています。直訳すると「神のキリスト」です。つまり、メシアという言葉はキリストという言葉と同じ救い主を意味する言葉なのです。ペトロは、イエス様は神が与えてくださった救い主なのだと言い表しながら、「あなたは私の救い主」と、イエス様に向かって胸の内にある信仰を告白したのです。

 ヘブライ人への手紙111節には、このように記されています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」確信は、心の内にあるものです。そして、確認は、経験を通して得るものです。つまり、ペトロは、イエス様との出会いを通して、神は私たちを罪を赦すためにイエス様という救い主を与えてくださったのだ、というその目に見えない事実を確認したのです。

 思い返せば、ペトロとイエス様の出会いは偶然に起きたものではありませんでした。当時漁師をしていたペトロのもとに、イエス様の方から会いに来てくださったのです。かつてイエス様のもとに集まった群衆は、イエス様に目を付けて、会いに行ったのは自分たちの方だと考えていましたでしょうが、そうではないのです。ヨハネによる福音書1516節にはこのように書かれています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」このことは、ペトロだけではなく、全ての人に言われていることです。私たち一人一人に言われていることです。私たちがイエス様と出会ったのは、私たちがイエス様を選んだからではありません。イエス様は私たち一人一人を愛し、選び、救ってくださるお方です。

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