説教要旨

2024年7月28日説教要旨

「恵みへの招き」家次恵太郎牧師

                             コリントの信徒への手紙一11章23~29節

礼拝堂講壇の真ん中にある大きな台は、聖餐卓です。聖餐を置くための卓(テーブル)です。テーブルがあるのは、食卓としてです。イエス様が招いてくださる食卓、招かれて食べる食事は一方的な恵みです。その食事とは、裂かれた体と流された血、犠牲に現わされた、神が人の罪を赦すためにご自身をお与えになったイエス・キリストの救いの恵みです。ここに招かれているのだと思い起こすのです。礼拝はいつどの時も、その聖餐卓を片付けてしまうことなく、この恵みへの招きによって呼び集められたものとして共に座るのです。教会の原型は神殿ではなく家です。家で、礼拝し、洗礼があり、聖餐を行われてきたのです。初代教会から変わりません。家は帰るところであり、神の家族であるものが共にあって生きるのです。神が共にあることを願われ約束される方でありますから。

 

「すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。」

「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。(2325節)。

 

私たちのこの礼拝堂も、まず目線の先に聖餐卓があります。この教会の場合は、入り口に、そして椅子に近づいていく歩みはそのまま聖餐卓に一直線に進んでいく動線をとることになります。聖餐式を行う週でなくでも変わりません。そしてその恵みへの招きを受け取ることが大切です。それはすなわち洗礼への招きとなります。信じて洗礼を受け、洗い清められたものとして新しく生きる人生があるのです。ですから礼拝は常にキリストに根拠を持った罪の赦しの宣言の時となります。

キリストに根拠をもって、生きていいという時となります。ありがたいことです。自分に根拠をもって全てをこれでいいと思えたらどんなにか楽でしょうか。しかしそれは不可能です。自分の思いと言葉と行いとに根拠をもって、神と人に受け入れられて生きられたら。その逆を味わい知る人生を歩むものです。神の恵みは、神の愛に根拠をもって一方的であることは、ありがたい。その差し伸べられた手を取ることが出来るように、立ち帰れるように、神は招き、そして共にあり、語り掛けてくださいます。そうして礼拝の時を過ごし、今日からを生きて、支えられていくのです。

2024年7月21日説教要旨

「別視点」家次恵太郎牧師

                        ローマの信徒への手紙14章10~23節

「食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません」(15節)。

様々な考え方があります。考え方は主張となって他者に向かいます。表現がどの程度であれ、確実に本人にだけ留まってはいません。人はみな、それを貫く自由があると主張したくなるでしょう。しかし、その握りしめているモットーであれ信条であれ、それがむしろつまづきをもたらし「裁き合い」、つまり報復としての対抗主張による裁きが起きていくその流れを、キリストは聖書を通して断ち切ろうとしているのです。「それなのに、なぜあなたは自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか」(10節)。

しかしそれは自分視点をマイナーチェンジするだけでなく、別視点が自分にも与えられなければ不可能でしょう。

「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものなのです」(14節)。自分が大切にしていることのためならば、人はいくらでも人を過ちの内にいるものとして見逃さない視点しか持たないからです。他者の考え方とか、それはそれ、これはこれと言えるのです。しかし、打ち砕かれた時はそうではないでしょう。自分の視点だけで生きられたものではないと思えるほど、揺るがされる時があるものです。

自分にとってだけだった。「その人にだけ汚れたものです」。汚れをご自身の救いによって清めるイエス様の御力を通して見る時があります。

ただキリストが自分の罪のため死なれた。正しさを主張し裁き合っているそのときに、その正しさなど自分以外に問題となっていないのだ、むしろ全ての人に重大なのはキリストが死なれるしかない罪人である私たちが救われるには、食べ物どころではないという神の真実の裁きと赦しの前に立つことです。

その砕かれた心は、愛のためにつまづきをもたらす「主張」を放棄できるのではないでしょうか。そうしようと聖書は呼びかけ語りかけます。生かされ、新しくされたと言っていただける人生を歩めることこそ中心問題です。そんなに大事でしょうか。私たちが握りしめ、問題としていることは。

それ以上に、他の何ものも追いつくことのできない仕方でキリストが全世界の誰にとっても、自分が受け入れられている心の寄せどころ、救い主がおられると確信し、誰かの、自分の、心の痛みが一つでも消えていくならば。

2024年7月14日説教要旨

「恐れることはない」家次早紀牧師

                               ヨハネによる福音書6章16~21節

イエスはガリラヤを回って、教え、人々の病をいやしておられました。ある時、イエスの話を聞くためにガリラヤ湖のほとりに数千人の人が集まりましたが、彼らには食べるものがありませんでした。群衆を憐れまれたイエスは、手元の五つのパンで5千人の人を養われます。しかし、同じ内容が記されているマタイによる福音書によれば、イエス様はそんな群衆から弟子たちを引き離すかのように、すぐに彼らを舟に乗り込ませて向こう岸へと送り出しました。

なぜ、弟子たちは群衆からすぐに引き離されなくてはならなかったのでしょうか。どうやら、実際にパンを群衆に手渡したのは弟子たちなのです。数百人にパンを手渡して、数百人の喜びを見たなら、数百人から感謝の言葉を聞いたらなら、どんな気持ちになるでしょう。パンを与えてくれているのはイエス様であるとは分かっていても、パンを運んでいるうちに、自分が感謝を受けるべき何者かにでもなったかのように思い込んでしまうでしょう。わたしは神の恵みを運んでいるに過ぎない、という自覚を常に持ち続けなければなりません。弟子たちは湖の上へと送り出されました。湖に強風が吹き荒れ、波は逆巻き、弟子たちが乗った舟が嵐に翻弄されています。イエス様は、その様子をただ見ておられるだけではなく、湖上を歩いて、弟子たちのところに行かれます。当初弟子たちはイエス様を認識できませんでした。波と風のことで頭が一杯になっている時、不安や恐れに捕らわれてしまっている時には、イエス様が近くにいてくださろうとも分からないものです。しかし、そのような弟子たちに、私たちに、イエス様は「わたしだ。恐れることはない」と言ってくださるのです。この「わたしだ」という言葉は、「わたしはある」という言葉でもあるのです。旧約聖書において、神がご自身の名として用いられた「わたしはある」という御言葉を、イエス様はここで口にされたのです。つまり、「安心しなさい。わたしがあなたの神だ。恐れることはない!」そう言ってくださったのです。私たちは確かに沈みそうな小舟に乗る者そのものです。しかし、私たちは信じてよいのです。私たちは絶対に沈んでしまわない、と。海を踏みつけて立ち、私たちに手を伸ばして捕らえて離さないイエス様がおられるからです。

2024年7月7日説教要旨

「なぜ、赦される」家次恵太郎牧師

                                             ミカ書7章14~20節

「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる」(19節)。

投げ込むのですから、その先の海の深み意味するのは、もう戻って来ないところです。神様が海の底まで投げ込んで処分してしまわれるというのです。

罪のおおもと、罪人ではなく全ての罪を投げ込んでしまわれた。いらない、不要、どけと言われるのです。人に絡みつきとらえて仕方ない罪は、処分が決定している。それに気が付いて不要だと思えればいいのです。そこから神の方へ立ち返る悔い改めがあればいいのです。その意味で、日々悔い改めの時を過ごすことが必要です。私たちは大体、罪の性質の思いや事柄を、必要だと思って生きているものですから。だからやっかいなのです。

 

投げ込むべきもの。ごみは、これはゴミ箱に入れようと判断しなければ周囲に増えていくばかりであるように。罪を保管しない神であることを、神様は十字架のキリストによって見せてくださいました。この痛みという代償を払ってまで、主は私たちを必要、大切、わたしのところに来なさいと赦しのもとに招かれたのです。主の十字架こそ赦しの根拠です。私たちが赦されたいと願っただけで、そこに根拠を持っているのではありません。だからこそ、なぜに答えがあるのです。イエス様は私たちの罪のために来てくださいました。死んでくださいました。誰も神の赦しと無関係ではなくなるためであり、事実そうだからこそ、礼拝も可能であるわけです。祈りも賛美も、神の赦しを通って受け入れられているからです。

私たちは海の罪を海の底(キリストの十字架による身代わりの死)に、私たち自身を神の愛の中に投げ込んでしまいましょう。洗礼のときに起きるのもその出来事です。全てはそこから取り戻されるはずです。

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