説教要旨

2024年9月29日主日礼拝説教要旨

「その愛が起こしに行く」 家次早紀牧師

          ヨハネによる福音書11章1~16節

 今年は元旦から、大震災が能登半島を襲いました。そして先日は、地震からの復興がようやく進み始めたばかりの能登半島を豪雨が襲い、さらに大きな被害を受けることとなりました。テレビのニュースを見ながら、現地の人々を思い歯がゆい思いになったり、悔しい思いをしているのは、皆共通のことと思います。私は地震当日輪島市の実家に帰省していましたから、地震当日に何が起きたのかを見聞きして知っています。高台に逃げる途中、全壊した民家から突き出している木の柱と柱の間にできた空間に向かい、その家の家主の名前を不安そうに何度も呼ぶ近所の人を見ました。高台につくと、何人もの子どもたちが、私がこれまでの人生で聞いたことがないような悲痛な声で泣いていました。その声が今もずっと私の脳裏に焼き付いています。皆、着の身着のまま逃げてきましたから、厳しい寒さにも耐えなければなりません。寒くて寒くて、大津波警報はまだ解除されていない段階でしたが、多くの人が高台から降りて、避難所となった市役所などへと向かっていきました。空は、空の青い色と、町で発生した火災の赤い色が混じった、なんとも言えない濁った深い赤色をしていました。あの日は元旦でしたので、私だけではなく、私の同級生も多く輪島市の実家に帰省していたのですが、地震の影響で携帯が通じない子も多く、友達が無事なのか、確認が取れるまではやはり心配で仕方がありませんでした。被災地にいた人々の心には、様々な悲痛な思いが交差していました。当時のことについては、語ると尽きないのですが、今はとにかく、地震と水害によって被害を受けられた現地に住む人々、離れた地に避難している人々の生活と心身体の健康が安定すること、少しでも以前の街並み、生活が戻ることを祈り願っています。

 

本日の聖書個所にも、自分の家族が苦しんでいる状況に直面している、マリアとマルタという2人の女性が登場しました。マリアもマルタも、いずれもイエス様とお会いしたことがあり、イエス様が神が遣わされた方であると言うこと、神様の憐れみや恵みを自分たちに教えてくださる方であると言うことを知っていました。その兄弟であるラザロが重い病気にかかり、闘病の末に今まさに息を引き取ろうとしていたのです。イエス様もまた、このラザロという男性のことを良く知っていました。だからこそ、マリアとマルタは、もう手の尽くしようがなくなったラザロを何とか助けてもらおうとして、イエス様に使いを送ったのです。ここに、彼女たちの信仰があります。医者の治療を受けても直らない、何をしても良くなる兆しがない、そうなると、たいていの場合人は嘆くことしかできない、諦めるしかない、そういう思いにさせられます。しかし、彼女たちはもう一つの選択肢を知っていました。イエス様を求めたのです。「それでも、イエス様がおられる」そう思うことこそ、信仰生活の始まりです。

2024年9月22日説教要旨

「神によって保たれて」 家次恵太郎牧師 

                ローマの信徒への手紙11章33~36節

33ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」

 この手紙を書いていたパウロは、書いている時に本当に「ああ」という声が溢れ出たのだと思います。というのもこの手紙は口述筆記(語った言葉を書記が手紙として書き記す)で書かれているので、「ああ」という叫びと共に語られたのであり、この「ああ」こそ、それに続く言葉がパウロの直撃した神の素晴らしさへの賛美と感動を示す不可欠な声であったのです。彼の心の動きはこの一声なしには伝わりきらない。パウロも書記も判断したことでしょう。

信仰によって教えられ理解できることと同時に、この「ああ」が信仰生活を保ちます。人生を保ちます。なんと深い神の富と知恵と知識。究めつくせない神の道

。それは憐れみ深い神の恵みです。それこそが神の持っておられ与えてくださる富であり、深き知恵、私たちへと届く神の道筋です。

神は私たちを愛し抜き、赦し、救うために時を定め、全てを活かし、

 

34「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。35だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。」

神との交わり、信仰には驚きが重大です。発見が強烈で、心が温かく燃える。そうでなくてはと、今日の聖書は改めて教えるようです。理解したものとして世界と人生と自分と他者を見ることはできません。何歳になっても何を経験しようとも無理なのです。それでいいのです。誰も主の相談相手ではないのです。神がそう望まれたのです。神と協働するのでは依り頼むことはなくなります。神と取引するのでは恵みではなくなるからです。

 

36「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」

信仰によって世界を見る時、神から始まり神から出ている創造、神に向かっている永遠の命や終末の完成のことはむしろ漠然とでもわかりやすいかもしれません。一番揺らぐのは、神によって保たれているという「現在」とその周辺の認識です。保たれているのか。そうは見えない事柄に満ちた人生にこれ以上何が待っているというのか。だからこそ、そうであるからこそ、「ああ」が決定的に重大なのではないでしょうか。その驚き、高まり、慰め。その時が接近しつつあると信じて祈る生活の中にあると経験できるように、神の定めと道は、共におられることを示しながら、御言葉を語り続けながら私たちに働きかけ続けます。いつか、「ああ」といえるまで。それも神がくださる贈り物のような瞬間です。

2024年9月20日ミニ礼拝説教要旨

「わたしだけに」 家次恵太郎牧師 

         ルカによる福音書10章38~42節

 イエス様が、マルタとマリアという姉妹の家で、神様のお話をしています。言うなれば自宅を礼拝の会場としてお貸ししているわけです。既に、イエス様の話を聞こうとする群衆はとても大勢になっていたことが他の箇所を見てもわかります。大勢が入るような家ですから広いのでしょう。広いのならば準備はその分大変ですね。

マルタは忙しく給仕していました。それがなければこの集会はありません。家を貸しただけでは成り立たず、片付け、掃除、食事、誘導、もてなしの言葉など、想像するに難くない様々なつとめがあるわけでしょう。しかし時として、その場で話をしている人や目立つところの働きは感謝されたり評価されたり、少なくとも認識されはするものの、裏方的なことは認識も感謝もされず、本人は話もゆっくり聞けないしやることはいつまでも終わらない、ということも起きてくるのではないでしょうか。

 

そのようなマルタは、妹のマリアがイエス様の足元に座って、安らかに話に聞き入っている姿を見ました。そして気になりました。とても。

マリアのことが気になったのですが、今まさにお話している最中のイエス様に、「なんともお思いになりませんか」と言いに行ったのです。「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」(40節)。

不思議です。マリアをつかまえて、手伝いなさい、あなたはこの家の者だから給仕側でしょう!とでも言うほうが自然で早いような気がします。なぜわざわざイエス様を話の経由地にしているのでしょうか。恐らく、経由地ではなかったからです。

マルタはイエス様に何か思ってほしかった。多分、マリアに注意してほしかったというのでもないでしょう。イエス様の眼差しにも言葉の中にも入っていない。わかってもらえてない。わたしだけに報いなく、わたしだけにこんな仕事量、わたしだけにイエス様の言葉は届いてない。しかしイエス様の返答もまた、マルタを経由地にして群衆に眼差しを戻すような類ではありませんでした。

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。」 名を2回繰り返して呼ぶ時、それはイエス様が心に深く語りかける時の言葉です。「シモン、シモン」(ペトロに)「サウル、サウル」(使徒言行録でパウロに)。イエス様はマルタが多くのことに思い悩み、心を乱していることをご存知だった。忙しく動くマルタはイエス様の眼差しの中に入っていないなんてとんでもない。それを示すように、この箇所でイエス様の言葉が記されているのはマルタへの言葉だけです。マルタもまた、イエス様の語る神の平安と赦しのもとに入っている。イエス様よく見てくださっている。忙しいとしたら、その中で。だからこの日々の中で、安心してイエス様に心を向けましょう。

2024年9月8日説教要旨

「羊飼いが先頭に」 家次恵太郎牧師 

             ヨハネによる福音書10章1~6節

「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」(3-4節)。

名を呼んで自分のもとに呼び集める羊飼い。

イエス様はご自分をそのように伝えます。

 

羊飼いは羊を知っていて、羊が本当の意味で生きるため、今の状態のままなのではなく、その導く先に健やかになるために、先頭に立っていく。私たちはそう信じてよいのです。十字架にかかられるキリストであるイエス様がそう言ってくださるのですから。

罪の赦しの十字架を通して私たちを見て、その赦し、受容、回復から出るあらゆる良きことによって私たちを真に生かすのです。

 

そうでないものは盗人であり強盗である。羊もその者の声を知らないので、ついていかない。動かない。それは動物の羊と羊飼いにとって自然なことであるように、神様と私たちにとっても自然なことだと教えてくださるのです。この方のそばがいい、私たちも心からそう思いたい。羊飼いだけが羊を守れる。だからついていく。

 

生きる道が見える、共におられる主の愛の姿が見える、それは同時に見せていただけるのです。いつか迷いさまよう只中で、きっと神の方から示してくださるのです。

 

誰に立ち帰ればいいのか、誰がそばにいようと決めていてくださるのか。誰に名を呼ばれたのか、思い起こせることは幸いです。

呼び集められた私たちの状態を、イエス様はよくよく見ていてくださいます。ぜひ、主に見出されたいと思います。

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