説教要旨

2023年11月12日 説教要旨

「楽しみにしていた」家次恵太郎牧師    

創世記12章1~9節

「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである」(ヨハネ856)。アブラハムは何を見たというのでしょうか。イエス様によってあらわされることになる神の救いの実現を見て喜んだのです。しかし、アブラハムの時代とイエス様がおられる時代は全く違います。

つまり、旧約聖書においても新約聖書においても、神様がなさろうとしていること、なさっていることが共通しているということであります。そしてそれこそ、キリストによって成し遂げられるものなのでした。その日をもたらすために来た、その時代を始めるために来たと言うに尽きるのです。

 アブラハムは創世記12章ではアブラムと呼ばれています。神はアブラムに呼びかけ、新たな人生へと遣わします。「あなたは生まれ故郷、 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように」(12節)。祝福とはなんでしょうか。神様が良きもので満たし、共にいてくださり、未来を開いてくださるということです。そしてそれはアブラム個人のことに留まらず「祝福の源」とされるというのです。水も水源から出るものですが、祝福の源があるならばそこから神様の良きものが広がっていくのです。そのためにこの世界に置かれるのです。アブラムに世界に広がるほどの子孫を与える約束も与えられます。そのように後のイスラエルの民の始まりとされていくのです。神様は救いの歴史を進めていかれる。救われるものが起こされていく。数えることなどもはやできないほどに。

アブラムが御言葉による約束の先に見たその日、それこそ今日の私たちの日です。イエス様によってどんな人もどんな時も神様の祝福の中に入れていただける日です。祝福されたものが、遣わされる場にいることによって祝福の源になる。アブラムが生きていくことによって広がった主の御業は、アブラムで止まらず、息子イサク、ヤコブ、その子孫たちに続き、キリストというまことの祝福の源を迎えるに至ったのです。

その歴史は罪の赦しの歴史です。神の業がいつくしみ深く続けられていく歴史です。まさに未来は神から来る、神しか開けないのだということを知らされる歴史でした。そこには祝福されなければならない世界があります。神の良きものを与えられなければ、人の罪の支配するどぶ川のような

そのためには、私たちは住み慣れた地をあとにするように、想像もしなかった日々に歩みだすこともあるのです。その日々という未来は、神様に祝福され、神が共におられ、神が送り出してくださるからこそあるのです。私たちはどんなときも守られています。私たちの歩むその人生の場所で、誰かが神様のくださる愛と恵みの中にいることができるのです。祝福の源となるように…私たちは祝福され、祝福となるのです。

2023年11月5日 説教要旨

「愛された時間」家次恵太郎牧師    

ヨハネによる福音書3章13~21節

本日は召天者記念礼拝をおささげしています。愛する方とこの地上の人生において時間を過ごし、その方が天に召されるという一言の中に、家族にとっては、きれいごとではない時間の記憶苦しんだ時間を覚えているものです。からこそ、私たちにとって過去ではないのです。過去ではない人に、地上で愛された時間を思うものです。しかし、キリストが過去ではないから、「わたしを信じる者は死んでも生きる」(ヨハネ1125)と言われるお方は今日もなおそのように約束してくださるお方です。その方が招いてくださる礼拝は、天と地とが一つとされ、神と人、人と人とが共にあることを深みまで思い起こさせてくださる時です。

「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(316)。聖書のメッセージがこの一節に集約されているとも言われます。まことにそう思います。神に愛されているのは「世」、全ての人です。神と共にいないから、独り子によって神に探され、見つけられ、取り戻されねばならない全ての人です。その全ての人が神の愛を信じて救いを信じて、招きに応えることを願っておられるのです。導きは尽きることがないのです。だから私たちは礼拝の時の中にいるのでしょう。ならば、この地上の人生の時間全てが、神に愛された時間であるのでしょう。苦難があることも、家族ともども生きづらさを抱えていることも、この体の死があることさえも、神に愛されていないことを意味しないのです。永遠の命とは不老不死ではありません。神と共にある交わりが永遠に終わらないということです。それはキリストの十字架による罪の赦しがもたらします。神が全てを尽くして、独り子をも与え尽くして、私たちを取り戻してくださった。それが私たちの今現在であり、過去であり、未来の立ち位置として変わらないのです。

 

神は、誰の滅びをも望みません。私たちが滅びに向かうような歩みしかできないことはよくわかります。愛さない時間、愛されない時間、人にも、神に対してもそんな時間ばかりなのでしょう。愛に反する出来事の中を、もがきながら生きているのではないでしょうか。神はこれ以上ないほどに愛してくださっていた。それは、ご自身の中に留まってはいません。確かに実感できるように、礼拝とそこから始まる一週間の中で、たどり着かせてくださいます。自分も、この世界の人々も、天に召された方々も愛されているし、自分の、心から大切だったという愛もまた、地に落ちてはいない。神によってそれはないと知らされます。今、私たちが礼拝し希望を寄せるイエス・キリストは、天にある一人ひとりをご存じで、この上なく共にいて守っていてくださるからです。ならばこの地上での最後の時間が、結論ではないのです。私たちが地上において愛された時間を過ごしたことは、永遠に変わらない神の愛により繋がれ、残るのです。

2023年10月30日 説教要旨

「光あれ」家次恵太郎牧師    

創世記1章1~5節

「神は言われた。『光あれ』こうして光があった」(3節)。その前はどうだったのでしょうか。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」(2節)。混沌。秩序無く、むなしく、存在する意味を見出せない、そんな暗さが「地」、つまり世界を覆っていたのです。暗さです。闇が覆う世界。混沌であり生きる意味や喜びを見出せない世界。私たちの世界が依然として今日、そうであることは否定しようがありません。それは、神の光を失った暗さ、神との交わりを失った暗さです。慰めなく、赦しなく、神に生かされている秩序と平安なき世界です。

 

私たちの暗さも、その根本をたどれば、神を失った暗さです。祈りを失い、信頼と平安を失って、人への信頼も平安も失っているのです。失ってしまった色々なことが人生に暗い影を落とすでしょうし、他者により失わされたことであればなおさらでしょう。しかし、そこで、真っ暗になっている私たちは、神との交わりを失った暗さの中で、何もわからなくなって前がどの方向かもわからず虚無感に包まれているのではないでしょうか。それはとても暗く、深い闇です。恐れや不安のみの世界にしか見えてきません。

イエス様は、暗闇の中で輝く光として来られました。暗いけれど、光が灯されている。神様が語り掛けた、「光あれ」。その言葉そのものとして、この暗い世界に、神との交わりを失った闇の世界に来られたのです。私たちのところに来られたのです。

イエス様はこのように語りました。「わたしに従うものは暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」。命の光、世界を造り、存在する意味を与え、共にいてくださる命を生きることが出来るようにしてくださったのです。そのために神を失った暗闇の極みまで落ちてくださったのは十字架のイエス様だけです。そこでこそ、神の「光あれ」の言葉が届かないところはなくされました。罪と死を打ち破る復活の光が既に灯された世界に変えられたのです。そのイエス・キリストから命の光を受け取ることは、新しい創造です。世界を造られた神は、新しく世界を創造することもおできになるのです。私たちは、全てが新しくされて、キリストに引き受けられ担われた自分として主に結ばれて、もう一度出発できる。教会はそのように始められたし、守り導かれてきたのであり、今もそうなのです。世界を造ったのも、新しくするのも、私たちの暗闇ではありません。神の「光あれ」の御言葉のキリストによる実現によるのです。

あなたに、光あれ。あなたは赦されなさい。あなたは癒されなさい。あなたは人との間に平和を与えられなさい。あなたは生きられるようになりなさい。神様は過去の出来事でなく、今日の私たちを導く御言葉として、語りかけてくださるのです。光あれと。

ページのトップへ戻る