説教要旨

2024年2月11日説教要旨

「パンはどこにある」家次恵太郎牧師 

                                 ヨハネによる福音書6章1~15節

 イエス様がパンが5つ、魚2匹を大群衆に分けられたこの話は、4つの福音書全てに記されています。この食べ物が「少ない食べ物」と思うのは、私たちがイエス様の言葉と思いによって群衆へと目が向けられているからです。というのも、一人分であれば十分な量であるからです。しかし弟子たちも私たちもこの言葉を聞くのです「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(5節)。そう問われたならば、一人分では足りない、一人の力など何の役にも立たないと痛感せざるを得ないのです。 

弟子のアンデレは言います。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」(9節)。その通りです、しかしイエス様は最初からご自分がパンを与えて人々を生かすことを決めておられながら、弟子たちに考えることと探すことを求めたのでした。パンの出所はイエス様であることを知るようになるため。しかし弟子たちの眼差しがキリストに向くために、子どもの持っていたパンと魚であることが重要でした。即ち、弟子たちと同様に「自分の分、自分たちの分」くらいしか持っていない足りなさを見ることが道とされました。託されているこの世(それぞれ生きている場所、世界)に対して何ももたらす力などない人間の足りなさを通って、キリストの御業は進んでいるのだ目の当たりにしたのです。他でも無いあの五つのパンと二匹の魚を少年が差し出して、イエス様が用いてくださったので、大群衆に誰一人欠けることなく行き届いたのです。

人間を守り導いてくださるキリストは、人間を通し、教会を通して、救いの届かない人は誰一人いないことを伝えさせました。それはパンを食べるように真実として。パンを誰かの代わりに食べることはできません。信仰も同じです。命のパンであるイエス様の十字架によって与えてくださったその命によって、神が私たちと共に、そして私たちの内にいてくださる。わたしたちも神の内にいることができるようにされたのです。この満腹を奪うことは世の何ものによってもできません。その前に、私たちは見るのです。足りなさを。なんの役にも立たないとしか思えない有様を。そこにイエス様は注目しておられる。ご自分の御心のために用いることがおできなる。変えることがおできになる。愛するため、善きことのために転換することがおできになるのです。私たちの罪が赦されるということはそのように計り知れない大転換であり、私たちに共に祈り御言葉を信じ委ねる者として世に遣わされているとはまさに偉大なる神の業でしかありません。そこで私たちの足りなさだけで終わるはずがありません。パンはイエス様が分けて与えます。神の御業はイエス様によって、私たちの何の役にも立たないでしょうという心の景色のあとに、目の当たりするのです。既に進んでいたのだと。

 足りないな、足りない。そういうことばかり。しかし忘れてはならないのは、そこにはイエス様もおられるということ。もう一度、へりくだって、委ねましょう。そして、信じて、人の思いを超えて用いていただきましょう。

2024年2月4日説教要旨

「水の音 近き声」家次恵太郎牧師 
                            ヨハネによる福音書5章1~18節

 水の音が聞こえるベトザタの池に、一人の人が横たわっていました。病気で起き上がれないから横たわっていたのです。そこにイエス様が近くに来られて語り掛けられます。「良くなりたいか」(6節)。よくなりたいに決まっています。イエス様はその人がもう長い間も病気で苦しんでいるのを知っていました。彼は何と答えたか。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」(7節)。良くなりたい願いなど、とうの昔から持ち続けたわけで、なぜそれがかなわなかったのかを訴えかけるのです。環境、状況、他者に原因があると。過去が悪いと。それはそうなのでしょう。私たちの今の悩み苦しみのほとんどがそう思えるのと同じに。

彼の事情はヨハネ福音書の最後のページに追加で書かれています。「彼らは、水の動くのを待っていた。それは主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気もいやされたからである」。第一に、本当にどんな病も癒されるなら誰もがここに来ますから、そんなわけがありません。要するに当時の迷信です。そのことに神経を尖らせて待ち続け、我先にと急ぐほどに、切実であったのです。ここに見えてくるのはベトザタの池いる彼らの心です。先に降りなくてはならないのに、他の人より早く動けない。苦しみと癒しについても競争社会です。先ほどの彼の言葉には競争社会への疲れがあります。先じゃなければ得られない。勝たなくては良くならない。先に進む者の後姿が自分に残すのは、ああ、そこに自分はいられないからまた変わらない、それは本当に自分にだけ原因があるのだろうか?周りの人は自分がこれだけ長く苦しんできて、水が動くときに運んでくれる配慮はどこにいってしまうのだろうか…。様々に考えめぐっても、全部もっともでしょう。しかしそのもっともなことは悲しいほどに人を動かさないのです。いや、思ってもいない方向に動かされているのです。よくなりたいが、あのことやこのことのせいでよくなどならないと思っているのですから。自分も他者も含まれたあの事やこのことの中では神様はおられないようにすら思える。迷信を信じるならば、競争社会を生み出しているのは主の使い(天使)だというのですから。病気を生み出すのは罪でありません。イエス様も同じ福音書の中でそれを語っておられます。しかしこの失望感を生み出すのは複雑に絡み合う罪の結果です。私たち全てに関係のある話であり、横たわり上手くいかなかった出来事を羅列する心は心当たりがあるものでしょう。それぞれの、頑張って待っている水の動く音、人の声、足音の中で、無力さに腹が立って仕方のない人生。イエス様はそれでも、あえて「よくなりたいか」と聞いてくださった。神の救いをこの人も求めることを願って下さったのです。イエス様という神様からの救い主は私たち人間の近きに来ておられるからです。どの記憶とその影響よりも、主の声の方が近いのです。主のあたたかき声、立ち上がらせてくださる声は、私たちの固有の人生に語られるのです。本当に人を動かすのは、神共にいまして、行く道を守ってくださるから起き上がるその平安なのです。

2024年1月28日説教要旨

「真理はあなたたちを自由にする」家次早紀牧師 
               ヨハネによる福音書8章21~36節

 イエス様は「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と。イエス様は、この言葉を一体誰に向けて語られたのでしょう。イエス様の言葉を聞いても信じない人々に向けてでしょうか。いいえ、イエス様の言葉を聞いて「このお方は素晴らしい!このお方を信じよう!」と決心するにいたった人々に向けて言われているのです。この節において用いられている「信じた」という言葉には、継続して信じ続けているという意味は含まれていません。つまり、何かのきっかけがあって、イエス様の言葉を信じようと思うに至っても、それはその一時の思いでしかなく長くは続かない、という人は少なくなかったのです。しかし、イエス様にとって重要なのは、人が一時の感情ではなく、しっかりとイエス様の言葉に「とどまる」ことでした。イエス様の言葉に「とどまる」ならば、あなたがたは本当にわたしの弟子だ、そういわれたのです。信仰は、イエス・キリストとの絶えることのない交わりであり、結び付きです。そのことを踏まえた上で、本日の聖書個所に記されているイエス様の言葉を改めて聞きたいと思います。イエス様は、「わたしの言葉にとどまるならば」と言われました。つまり、私たちとイエス・キリストを固く結びつけるのは、イエス様ご自身の御言葉なのだということです。信仰生活を送る、ということは、イエス様の御言葉を聞き続けるということなのです。ただ漠然と自分の信じたいように信じるのではなく、イエス様の御言葉にとどまらなければなりません。イエス様の御言葉に耳を傾け、その御言葉を心に受け入れることによって、私たちはイエス・キリストとの交わりにとどまることが出来るのです。

また、イエス様は「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と言われました。それは、言い換えるならば、あなたがたは今、自由ではないということでもありましょう。「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷」だからです。人が自由ではなくなるのは、人の内にある罪によってなのです。私たちはまず、自分自身が罪の奴隷であることを知らなければなりません。罪は人の自由を奪います。そして「真理」という言葉には、「覆い隠されていない」という意味が込められています。また、「真実」と訳すこともできます。つまり、真理とは何かと問われれば、それは、イエス・キリストによってこの世に現された神の真実なのです。神は、御子であるイエス・キリストをこの世にお与えになりました。そして、イエス・キリストは、私たちを愛し、私たちのために十字架にかかり、私たちの罪を赦し、救って下さるお方です。この真実は、覆い隠された秘密ではありません。イエス様が、この真実をこの世に告げ知らせてくださったからです。私たちはイエス様の御言葉によって、神の愛と真実に触れ、聖霊に満たされることによって、罪の縄目から、この世の全てのしがらみから自由にされるのです。

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