「恵みへの招き」家次恵太郎牧師
コリントの信徒への手紙一11章23~29節
礼拝堂講壇の真ん中にある大きな台は、聖餐卓です。聖餐を置くための卓(テーブル)です。テーブルがあるのは、食卓としてです。イエス様が招いてくださる食卓、招かれて食べる食事は一方的な恵みです。その食事とは、裂かれた体と流された血、犠牲に現わされた、神が人の罪を赦すためにご自身をお与えになったイエス・キリストの救いの恵みです。ここに招かれているのだと思い起こすのです。礼拝はいつどの時も、その聖餐卓を片付けてしまうことなく、この恵みへの招きによって呼び集められたものとして共に座るのです。教会の原型は神殿ではなく家です。家で、礼拝し、洗礼があり、聖餐を行われてきたのです。初代教会から変わりません。家は帰るところであり、神の家族であるものが共にあって生きるのです。神が共にあることを願われ約束される方でありますから。
「すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。」
「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。(23-25節)。
私たちのこの礼拝堂も、まず目線の先に聖餐卓があります。この教会の場合は、入り口に、そして椅子に近づいていく歩みはそのまま聖餐卓に一直線に進んでいく動線をとることになります。聖餐式を行う週でなくでも変わりません。そしてその恵みへの招きを受け取ることが大切です。それはすなわち洗礼への招きとなります。信じて洗礼を受け、洗い清められたものとして新しく生きる人生があるのです。ですから礼拝は常にキリストに根拠を持った罪の赦しの宣言の時となります。
キリストに根拠をもって、生きていいという時となります。ありがたいことです。自分に根拠をもって全てをこれでいいと思えたらどんなにか楽でしょうか。しかしそれは不可能です。自分の思いと言葉と行いとに根拠をもって、神と人に受け入れられて生きられたら。その逆を味わい知る人生を歩むものです。神の恵みは、神の愛に根拠をもって一方的であることは、ありがたい。その差し伸べられた手を取ることが出来るように、立ち帰れるように、神は招き、そして共にあり、語り掛けてくださいます。そうして礼拝の時を過ごし、今日からを生きて、支えられていくのです。