「キリストの十字架だけを」 家次恵太郎牧師
サムエル記下18章31~19章1節
代わってあげたい。旧約聖書から、ダビデの嘆きを聞きました。人間が生きる中で、時として避けられず直面する嘆きです。苦しむ家族、友のために、代わってあげたいという願いが生まれます。しかし、代わってはあげられないのです。仕事を代わったりなどは他者にもできるかもしれません。しかしその誰かの根底を揺るがす出来事とその悲しみ、その影響に関しては代わってあげることができないのです。この事実に気が付くのです。自分がそれまで経験してきた自分自身に関する苦しみ、私たちはその大きさを覚えています。しかし、それを凌駕される経験をします。苦しむ姿、倒れていく姿、涙。なんでしょうか、私たちが見ている人生とは。孤独と罪の支配そのものでしょうか。そうとしか見えない時を、私たちは時に長く経験するものです。
ダビデもそうでした。息子アブサロムがイスラエル王国内でダビデ側の軍勢に反旗を翻し、戦闘となりました。ダビデはアブサロムの命は奪はない戦闘終結を願いましたが、
代われないこと、自分でなくその人なのだという思い。その思いも誰も代わることはできません。実を震わせ、上野部屋に上り、泣くのです。「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。」(19:1)聖書は、ダビデの行動と言葉に注目させます。一つの繋がった感情に注目させるのです。動きと言葉に含まれている痛みと、太陽が沈むように影が落ちていく心に
代わりに死ぬ、という不可能を行わる仕方であらゆる罪と不条理に対して救いをもたらされたのはイエス様です。父なる神が独り子イエス・キリストを身代わりの死のためにお与えになった。この事実は重いです。私たちは時に定型文的に考えてはいないでしょうか。ダビデの実を震わせ涙を溢れさせ声を上げさえていたのがアブサロムへの愛だとするならば、その愛を神は私たちに向けておられると言っていいのではないでしょうか。イエス様は私たちに向けておられると信じて受け取りたいと思うのです。この上ない、願い。それが御心と呼ばれる神の心です。どこで知るのか。キリストの十字架にそれを見るのです。十字架の上で、私たちの苦難は、そして代われなかったし変えられなかった誰かの苦難は、既に受け止められています。イエス様によって神は傷み、痛みはキリストのものとされています。ここに、本当は確かに慰めがあります。どうしても私たちにはわかる時が少ないだけで。
神が御子を与えられた。確かに人の心と神様の心は違うでしょう。そして救いと復活に向かう十字架は痛みに留まる話ではないでしょう。しかし、これ以上の痛みはないところまで、誰も代わってくれないし自分も代わることはできない痛みまで、神は通られたのです。降ってこられたのです。そのことと今の自分の悲しみや過去の傷は関係なく思えるかもしれません。しかし、その神以外に自分自身と他の全ての誰かを両方引き受けられる方はおられないのです。実を震わせ泣くのなら、その共感と心強さの中で泣けるのです。それは赦しと希望を与える主の十字架の姿と苦しみが合わせさせていただけるときです。代わりになれなかった全て、また誰も代わってくれない全てをこそ、イエス様と共に担い、考えてみませんか。