「その愛が起こしに行く」 家次早紀牧師
ヨハネによる福音書11章1~16節
今年は元旦から、大震災が能登半島を襲いました。そして先日は、地震からの復興がようやく進み始めたばかりの能登半島を豪雨が襲い、さらに大きな被害を受けることとなりました。テレビのニュースを見ながら、現地の人々を思い歯がゆい思いになったり、悔しい思いをしているのは、皆共通のことと思います。私は地震当日輪島市の実家に帰省していましたから、地震当日に何が起きたのかを見聞きして知っています。高台に逃げる途中、全壊した民家から突き出している木の柱と柱の間にできた空間に向かい、その家の家主の名前を不安そうに何度も呼ぶ近所の人を見ました。高台につくと、何人もの子どもたちが、私がこれまでの人生で聞いたことがないような悲痛な声で泣いていました。その声が今もずっと私の脳裏に焼き付いています。皆、着の身着のまま逃げてきましたから、厳しい寒さにも耐えなければなりません。寒くて寒くて、大津波警報はまだ解除されていない段階でしたが、多くの人が高台から降りて、避難所となった市役所などへと向かっていきました。空は、空の青い色と、町で発生した火災の赤い色が混じった、なんとも言えない濁った深い赤色をしていました。あの日は元旦でしたので、私だけではなく、私の同級生も多く輪島市の実家に帰省していたのですが、地震の影響で携帯が通じない子も多く、友達が無事なのか、確認が取れるまではやはり心配で仕方がありませんでした。被災地にいた人々の心には、様々な悲痛な思いが交差していました。当時のことについては、語ると尽きないのですが、今はとにかく、地震と水害によって被害を受けられた現地に住む人々、離れた地に避難している人々の生活と心身体の健康が安定すること、少しでも以前の街並み、生活が戻ることを祈り願っています。
本日の聖書個所にも、自分の家族が苦しんでいる状況に直面している、マリアとマルタという2人の女性が登場しました。マリアもマルタも、いずれもイエス様とお会いしたことがあり、イエス様が神が遣わされた方であると言うこと、神様の憐れみや恵みを自分たちに教えてくださる方であると言うことを知っていました。その兄弟であるラザロが重い病気にかかり、闘病の末に今まさに息を引き取ろうとしていたのです。イエス様もまた、このラザロという男性のことを良く知っていました。だからこそ、マリアとマルタは、もう手の尽くしようがなくなったラザロを何とか助けてもらおうとして、イエス様に使いを送ったのです。ここに、彼女たちの信仰があります。医者の治療を受けても直らない、何をしても良くなる兆しがない、そうなると、たいていの場合人は嘆くことしかできない、諦めるしかない、そういう思いにさせられます。しかし、彼女たちはもう一つの選択肢を知っていました。イエス様を求めたのです。「それでも、イエス様がおられる」そう思うことこそ、信仰生活の始まりです。