説教要旨

2023年5月14日 復活節第6主日 説教要旨

「信じる気持ち」家次恵太郎牧師  
              ルカによる福音書7章1~10節

 イエス様のところに、とても困っている人が来ました。離れたところにいる人の、急を要する話です。ローマの部隊をまとめる百人隊長の部下が病気で死にかけているというのです。イエス様のところに使いとして伝えに来たのはユダヤ人の長老たちでした。ユダヤ人とローマ人は決して助け合う関係性ではありませんでした。ユダヤ人は異邦人と呼び、自分たちの神を信じない者としてそして支配してくる人々として見ていました。ローマ人もそんなユダヤ人たちを良く思ってはいませんし、支配下にある民族として扱うばかりでした。しかし彼らの間の空気管はそうしたものとは違います。長老たちは言います。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」(4節)。強制されたからではない。心に浮かぶのは愛され良くしてもらった記憶。その部下のことならば神の癒しを求めたい。そしてイエス様に神様の恵みから来る癒しがあることを信じて彼らは来たのです。百人隊長自身、心配する日々を積み重ねてきました。病気が死にかける即ち改善されて行かなかった。そんな中でどんなにか心がぐるぐるとしたことでしょうか。どうしてもう少し早く気が付けなかったかな。手はあったのではないか。そこでは百人隊長としての戦力は何の役にも立たないのです。人生の積み重ねは人を本当に生かし守るところで無力さの象徴になることがある。上級の士官もいるでしょう。いろいろな才能のある部下もいるでしょう。しかし誰も何も自分も、泣くことしかできないのです。

イエス様の噂や出来事は周囲に知れ渡っていました。百人隊長は助けを求めました。その助けが届くために働くことを受け入れた長老たちがいました。イエス様も歩き出しました。ですが、百人隊長がイエス様という方の話の背後に見ていたのは、単なる蝶野力のような癒すちからではなかったことが明らかになります。イエス様一行が家に着く前に、彼の友人が来て、家に来てくださらなくていいと伝えました。その理由はこうだと言うのです。「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれているものですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』といえば行きますし、他の一人に『来い』といえば来ます」(78節)。彼はイエス様の御言葉と出来事に神の権威を見ていたのです。神が言葉を発して天地は造られました。イエス様の存在自体が、神が人を愛し、守り、罪を赦す権威ある神の言葉です。その言葉の通りに生き、神の愛を届けてくださいました。その通りになる。人生に、命に、苦難に、神の支配は与えられます。何ものをも超えて。神が語る言葉が私たちに向けられていると信じて礼拝します。事実その通りなのです。神が私たちと共におられ、命を捨てるほどに愛したその愛でいついかなる局面も守ってくださると聖書は語ります。これから歩む道は開かれ、支えがある、祈りは聞かれている。私たちを知っていてくださる方の「ひと言」に権威があります。私たちの心を静め、信じて、委ねたいと願います。

2023年5月7日 復活節第5主日 説教要旨

「実を結び、その実が残る」家次恵太郎牧師 

  ヨハネによる福音書15章12~17節

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと」(16節)。出かけて行った、すべての日を思い出してください。暑い日も寒い日も雨の日も。外だけではありません。家でも、室内でも、電話でも。自分の外に向かってなんとかして生きようとした全ての時間を思い出してあげてください。自分は頑張っていたのではないでしょうか。しかし確かに実を結んだとは言い難い様々を思い起こすことができます。しかし、出かけたあなたは実を結ぶと約束されています。その断絶を埋めるのは、イエス様が先に私たちを選んだという、全ての人が後から知る事実です。良い知らせとして後から知るのです。その平安は出かける私たちを全てから守ってくださいます。私たちを出かけたとき、必死だった時、うれしかった時、虚しかった時、イエス様がそこで実を結び、その実を残すと決めておられたというのですから。そうであれば実は残っています。歩んだ人生に、誰かの心に、職場や学校や家で生きた道の上に残っていく。そこにイエス様が訪れた証は様々な仕方で残るのでしょう。そこに希望をかけて過去を見るのでしょう。

この話が、「互いに愛し合いなさい」という言葉に挟まれるように語られています。それも、「わたしがあなたがたを愛したように」、イエス様が先です。互いに愛し合う難しさは、受けるより与えられたイエス様がその中心にいてくださるのです。愛の通らない場は、双方とも孤独です。まるで迷子のように心配は尽きません。そう瞬間的に変化もしません。しかし、イエス様は友として近づいてくださいます。共にいてくださいます。たとえ、それがどうかしたのか、としか思えない状況や状態に私たちがいたとしても、イエス様は愛を受けるよりもまず与えてくださったのです。イエス様がおられるところ、そのように導かれるのです。神様が何をされようとしているか、弟子たちも私たちも聖書から知らされているのですから。出かけて行った先で、イエス様と共に見る絶望は、イエス様のいない希望より揺るがぬ助けを信じられる。互いに命と心を守ることを大切にしていくようになれる。祈るようになる。実を結ぶ。実は木がもっている命が結びます。イエス様の復活の命が何もかもを乗り越えて結ぶ実がある。助けられ慰められる、本人も隣人もです。互いにです。その実が残って、今日も聖書は信じて開かれ、私たちは礼拝しているのです。イエス様が選んだ、つまり招いた一人ひとりなのですから、それでいいのです。光の中を走っている日々だけが出かけていっていることではありません。暗闇に座っている感覚であろうと、実を結ばせる神の時間と業は進んでいる。信じて、イエス様という神の愛に受け入れられていることを受け取りたいと願います。そこで実は結ばれ始めています。そのことこそ、人生のどの瞬間であっても、愛と助けを必要としている誰かに伝わるのです。

2023年4月30日 復活節第4主日 説教要旨

「神様の願い」家次恵太郎牧師 

ヨハネによる福音書6章34~40節

 考えてみれば、パンというものは自分を与えて人を生かすのです。そしてイエス様こそご自分をお与えになるそのために来られた方です。ご自分のことをこう表現されました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(35節)。神は私たちを飢えさせはしないという決意です。渇かたままでおくわけがないという行動です。そのためにはイエス様のもと、お側にいることが大切です。「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのところに来る人を、わたしは決して追い出さない」(37節)。パンを誰かの代わりに食べることはできないように、イエス様のところに行き、信じるということは本人にしかできません。そこには決して追い出されず裏切られることのない、神様のお側での憩いがあるのです。わたしたちのいるところ、そこがイエス様のもとなのです。復活の主は共におられるのですから。祈る時、信頼するとき、御言葉を聞くとき…神を愛し、人生で関わる誰かを愛することは神様のお側にいることです。そこに命のパンなるお方が与えてくださる命が流れ込んでくる。父なる神はイエス・キリストに私たちを託しました。この弱き私たちの責任者でいてくださいます。誰も奪い取ることはできず、イエス様に拒まれないということは神様に赦されて生きることできるということです。十字架につかれるイエス様がこの約束を語ったのです。私たちの苦しい人生にこそ、信じたいと思います。

 

「わたしをお遣しになった方の御心とは、」つまり神様の願いは、「わたしにお与えになった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」(39節)。一人を失うことに神の願いはない。御心でないことは実現しない。つまりなんとしてもあなたを守る、永遠に、変わらない、私たちを見てそう思っておられるということです。終わりの日に至るまでそうであるならば、今すでに神がキリストのものとして与えた愛の交わりの内で生きていくことができます。ここに深い慰めがあります。私たちは考えるものです、どこまで行けば満たされるのか、何をして生きればいいのか。ここはどこなのか。私たちはもっと、神からキリストに与えられているものとして生きていいのではないでしょうか。イエス様はご自身を命のパンとしてお与えになりました。与える愛を見せてくださいました。それを私たちは心から受けとっているでしょうか。本当に、力を捨て、受けているでしょうか。与えることができる力の大きさで自分をはかって焦ったり高慢になったり失望したりしていないでしょうか。そんな私たちの生活にイエス様がおられること。もう一度思い起こしたい。命を与え尽くすほど、それ以上ない救いを用意して待っていてくださるお方を。神様の願いはそこにあります。

2023年4月23日 復活節第3主日 説教要旨

「復活されたイエス様と出会う」家次早紀牧師 

  ルカによる福音書24章36~43節

今日私たちに示されている聖書個所には、死から復活されたイエス様と出会った人々が登場するのです。それはイエス様の弟子たちでした。弟子たちはイエス様が復活なさったことについて、興奮しながら語り合っていました。

今日の聖書箇所には、彼らが互いに話し合っているところに、イエス様が現れて挨拶をしてくださったという出来事が記されていますが、彼らはイエス様を見て、恐れおののいたというのです。「亡霊」を見ているのだと思ったのだ、とも記されています。常識では考えられないものを見たからこその反応でしょう。人間は時間を戻せない、亡くなった人が息を吹き返すこともない、それが、人間の常識です。そういう常識に沿って考えれば、復活など起こり得るはずがありません。しかし、神は違います。神は人の常識にとらわれないお方なのです。神に出来ないことはないのです。その神が、私たちの罪を赦すために、私たち一人一人の人生に介入してくださったという出来事が、イエス様の十字架における死と復活なのです。

 今、人間の常識ということについて触れましたけれども、もう一つ、常識で考えてみたいことがあります。思い返せば、イエス様は十字架に架かられる直前、多くの人に裏切られました。弟子たちさえ、一緒に捕まることを恐れてイエス様を見捨てて逃げてしまったのです。常識的に考えれば、そういう人々に対して抱く思いは、怒りであったり、憎しみであるはずです。しかし、イエス様は十字架の上で、神に彼らを赦してほしいと祈られたのです。復活された後も、イエス様は以前と何も変わらず、弟子たちを含む大勢の人々に会いに来てくださいました。その行動も、やはり人間の常識では考えられないものでしょう。神は、その御業だけではなく、その思いもまた、人間を越えておられるのです。

実際に目の前に現れたイエス様を見て、弟子たちは皆ようやくその事実に気が付き始めていました。そんな彼らに、イエス様は手足を差し出して十字架に架かられた時の傷跡をお見せになりました。それだけではなく「ここに何か食べ物があるか」とお尋ねになって、差し出された焼き魚を彼らの目の前で食べてくださったのです。そのお姿は、目の前にいるお方は決して亡霊などでないのだということを証明するのに、十分でした。

しばらくして、イエス様が彼らを祝福しながら天に昇られた後、彼らには大きな変化が見られました。24章52節をお読みいたします。「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」彼らは、イエス様を拝んだのです。それは、イエス様が神であることを悟ったためでした。こうして、彼らは互いに論じ合うことをやめ、共に神を礼拝するようになったのです。

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