説教要旨

2024年12月15日主日礼拝説教要旨

「主はすぐ近くにおられます」 家次早紀牧師

     フィリピの信徒への手紙4章4~9節

パウロはフィリピの信徒への手紙45節において、「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。」と勧めています。この「広い心」という言葉は、実は原文を読むと、本当は一言では表すことができないような、非常に深い意味をもつ言葉であることが分かります。その意味を知るために、パウロが他の手紙の中でこの言葉をどのように用いて語っているのかを見てみたいと思います。テトスへの手紙32節をお読みいたします。「また、だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを。」この節において語られていること全体が、本日の箇所で言う「広い心」が意味することであると考えられているのです。つまり、だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接する、そういうあなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい、ということです。しかし、多くの人がそうであり、ここにいる私たちもそうですが、このパウロの話を聞いてまず思うことは、「とてもじゃないけれど、私の心にはそのような広さは無い。」ということではないでしょうか。

なぜパウロは、辛い獄中生活、そして信頼していた人々と心が通じ合わなくなるという苦難の中でそのような広い心を持つということに立ち続けることができたのでしょうか。フィリピの信徒への手紙45節には、「主はすぐ近くにおられます」と記されています。主はすぐ近くにおられる、誰が裏切ろうと、誰が自分を粗末に扱かおうと、主イエス・キリストは私のそばにいてくださる、慈しみの眼差しで捉え続けてくださる、この確かな希望こそがパウロを支えていました。冷たい牢獄の中で、人の冷たさや自分自身の至らなさを痛いほどに感じながら、同時に、主イエス・キリストがこんな時でも側にいてくださるのだ、という深い惠みに生かされながら過ごしていたのです。

これは、私たちにも与えられている恵みです。目には見えなくとも、手で触れることはできなくとも、主イエス・キリストはすぐそばにおられます。私たちが今、どんな悩みをかかえ、どんな苦しみを味わっているのかを全てご存じです。そして、苦難の時、私たちに必要な御手を差し延べながら、常に支えてくださっているのです。パウロが勧めていた「広い心」、それはまさに、イエス様のお姿そのものと言えるでしょう。本来ならば、神の怒りを受けて当然の私たちを、神は憐れみ、共に生きようと手を差し伸べて下さいました。その神の愛が見える形となったのが、クリスマスの出来事です。かつて旧約聖書イザヤ書において預言されていた「主は我々と共におられる」というみ言葉が、見える形で成就したのです。

2024年12月8日主日礼拝説教要旨

「必ず主はあなたに会いに来られる」家次恵太郎牧師

    イザヤ書59章12~20節

 

今日の御言葉に、主は罪を悔いる者のもとに来られると語られました。

主は罪から救うために、贖う者として出会いに来られるのです。

果てしなく大きな、一方的な恵みです。

 

罪を悔いる。そのような悲痛な気持ちでありますが、そこでこそまことに神にお会いするのです。

 

神がどのように救ってくださるのかがわかるのです。そんな自分が希望の寄せどころを見出せることに、喜んでいいのです。

 

今本当に暗闇で、どん底を歩いているように思っているかもしれません。幸せな未来が待っているようにはとても思えないでいるかもしれません。

神様がそんな私たちに会いに来てくださって、神に受け入れられている罪人として、いつも、それでも生きていける。

 

そのことを一日の中で、1分でも10秒でも、1秒でもいいので、考えていくことは大切です。信じて、想像する。幸いをくださる神がおられる。現実のこの人生を必ず良き方向に好転させてくださる。とても寒い中のあたたかさのように、どこまでもこの愛の御業が必要です。

 

聖書は、徹底して、罪のもたらすこの世の有様はとてもひどいものだと描き出します。否定できません。

しかし、神はどうされるか、どう見られるかを伝えます。このことが既に福音です。

 神はその罪を背負うイエス・キリストをお与えになることによって、私たちに会ってくださり、安心して赦され、罪から離れて再び生きていくのです。そんなあなたに必ず主が会いに来られるから。

2024年12月1日主日礼拝説教要旨

「夜は更け、日は近づいた」 家次恵太郎牧師

ローマの信徒への手紙13章8~14節

「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」(12節)。 

 一日が過ぎていき、夕方になり、夜になっていく空は、寂しいものです。冬はあたたかな日差しが差していたのにそれが無くなり、気温が寒くなり、空の色も変化が速く、一気に暗くなったという印象を持たせます。世界を暗闇が覆っている。真実にこの世界を知って描写するならば、光が覆って輝いているとは描かないでしょう。旧約聖書において預言者イザヤも、この世界をこのように表現しました。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」(イザヤ60:2)。イザヤも、パウロもまた、包み込む闇、夜、暗黒を見ていたのです。闇から連想する言葉は色々出てきます。絶望、悲しみ、憎しみ、妬み、虚無感など、どれも人の罪と無関係ではありません。罪によって神との確かな交わりも隣人とのあたたかな交わりも失ってしまっている暗さです。時代を超えて、このことから逃れられる人は一人もいないのでしょう。

夜が更けて、そのままだとしか思えないならば、闇の中に留まろうとなるでしょう。しかし、夜が更けて、日は近づいているのです。何もかものあとは、神様が来られるので。明けない夜は無いと信じる人は備えます。夜が明けてから目覚めるのではなく、夜が更けている暗闇の中で目覚めて備えているのです。神の御業を待ち望み、その恵みの支配によって変えられる自分を待ち望むことができます。

そして、「イエス・キリストを身にまといなさい」と言われます。身にまとっているものは、切実です。それによって相手も自分も判断されるほどです。ですので、ボロボロの服で日中を歩く人はいないように、包まれている闇を脱ぎ捨てるのです。古い自分にとって代わってくださるのはキリストご自身です。私たちを通してキリストご自身が生きて下さる。自分の外から、上から、しかしこの上なく丸ごとイエス様に生かされるものとしてくださるのです。罪の赦しをもって清め、主の栄光のために派遣される者として、自分を見ていいのです。身にまとっているのですから。

そんな夜明けが既にこの闇の世界で現わされています。信仰によって知り、受け取ります。洗礼によって現実のものとして生き始めます。夜は更けてまだ夜明け前、しかし、日は近づいたと知るから、目覚めて、夜明けを生きるのです。あなたを包む闇、包んでいた暗黒よりも、もっとあなたを包んでいるのはキリストだからです。アドベントのとき、待ち望むものを失わず、それを味わい始めながら、主に立ち返る目覚めを与えられたいと願います。

2024年11月17日主日礼拝説教要旨

主日礼拝説教「復讐のくだらなさ」 家次恵太郎牧師

 マタイによる福音書5章38~48節

以前お世話になった先生が言っていた言葉が心に残っています。「誰かを許さないでいることは、相手に飲ませたい毒を自分が飲んでいるようなものだ」。毒を飲ませるとは過激ではありますが、私たち人間の心は時にそうとしか言えないような、復讐心という、存在否定の思いにかられることがあります。復讐劇というものはドラマでも漫画などでも、展開として盛り上がるものですから人気があるものです。悲しみを生むことをされたので、やられたらやり返す、倍返しというセリフも流行るくらいです。やり返すために人生の時間を使い、その間に心をすり減らし、実際にはその人物が復讐を遂げたとて、何も返ってくることもなく、すっきりもしていないと思います。現実にそのような、やり返す、成し遂げられる、ということは本当の意味では無いのではないでしょうか。ゴールのない競争をどこに行くかもわからず、暗闇の中を走っているかのような。そうして周りの全てにも影響を出してしまいながら、人生の時間は過ぎていくのです。何がやり返すことになるのか。そんな状況が存在するのだろうか。言うなれば非常に滑稽なのです。

聖書は悪魔について語ります。悪魔は私たちを神と人と一緒に生きていくことから引き離していくでしょう。それは正義の仮面をかぶっているでしょう。「悪人」「敵」という言葉が語られているように、それは悪い存在だと自分で思っているわけですから、こちらは正義側なのです。人はなぜか自分の正義感に対抗することは難しいもので、良くないものだと思っていないわけですから、人生を動かしていくようなことをいくらでもしてしまうわけです。悪魔はそれを見て高笑いしているでしょう。人と人とはこれで離れた。自分が何か行動を起こしていくこと以上に神様が私たちを知っていてくださり、関わってくださることが、平安ではなくなった。それこそ自分がその毒を飲み続けている。自分も周囲の他者も傷つけ、心を害し身体を害し、よきものは何ももたらされません。それどころか、正義側のような顔をしていたその人は、失敗します。道を踏み外す。足元すくわれる。周りの本当だったら楽しく過ごしていたかった人と楽しく過ごせません。何かおかしくなる。それこそ毒は致命傷であり命を失っていくように。その人を大切に思っていてくれた人は、悲しくなっていくわけです。

ですから、「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(39節)と、復讐の静止を語るのです。それではない、というのです。極端に聞こえますが、その復讐心でなくても言うべきことは言えますし、コミュニケーションは別にできます。この御言葉に従っていくことは、神に委ねることです。もちろん辛かった気持ちを否定するということではありませんけれど、その時の感情に引っ張られていくことは、毒を飲み始めているのです。本当はその間にできることがあるのです。気が付くべき自分の姿があり、誰かの気が付くべき苦しみに気付き、あと一言、話すべきことを話せるのです。そのもったいなさ、滑稽さに気が付ければいいのです。「目には目を、歯には歯を」どころではない。復讐心それ自体がくださらない。神様は、その愛に背を向けて走っていく人の背きの中に、キリストを遣わしてくださいました。御言葉を受け取る時、神様が何を願っているか。それは安心して生きていくことなのです。それは憎しみと復讐の混じった道ではないのです。その罪を背負い、立ち返りと赦しへと導く十字架のイエス様が、今も命をかけて語っておられます。私たちはその意味で、目を向けるべきところに向けなおして、自分の心を守りたいと願います。

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