説教要旨
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2022年6月19日 聖霊降臨節第3主日 説教要旨

「主が手を取って起こしてくださる」 家次恵太郎牧師

マルコによる福音書1章29~39節

 この日はどういう日だったのでしょう。29節に「一向は会堂を出て」とあります。なるほどその前の個所21節を見ますと、「イエスは安息日に会堂に入って教え始められた」とあります。礼拝が行われる安息日(土曜日)であったということです。それと同じ日の出来事です。安息日に癒しを行うことは禁止されていました。当時のユダヤ人の間で律法主義の考え方がどんどん鋭くなっていくほどに、非常に多岐に渡る行動制限がありました。イエス様一行は弟子のシモン(ペトロのこと)とアンデレの家に向かいました。一行が向かうのはイエス様が向かおうとされる所ですから、会堂から自分の自宅に向かわれたことにシモンは驚いたことでしょう。そこでシモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたのでそのことをイエス様に話したとあります。しかし、この日は安息日ですので、彼らは今すぐ癒しを行ってくださいと言ったということではなかったのではないか、と考えられています。それもそのはず、32節では「夕方になって日が沈むと、人々は病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れてきた」とあるように、夕方になって日没になれば安息日が終わるので動けるのです。多くの人が安息日明けを待っていたわけです。シモンとその家族たちもその常識の中で考えていたでしょう。しかし、にもかかわらずイエス様は安息日に癒しを行ったというのです。熱が何度であったのかは分かりませんが、寝床で心細く過ごす日常の苦しみに、イエス様は何もかもを超えて、その部屋めがけてそばに来てくださったという話なのです。

 先にも触れた21節以下の個所で、会堂で礼拝が行われていた時も、悪霊にとりつかれた人が叫び出していました。周りの人々にとってそれは安息日の礼拝で起きるべきことではありませんでした。望んでいない事態。しかしイエス様はすぐにその人と関わり、そばに行き、悪霊の支配から解放してくださいました。神様ならぬ支配からその人を取り戻す。まことにその一人の人の救いが起きる。苦しむ人の救いが起き、神によって受け入れられて、礼拝の群れの中に安心して取り戻される。イエス様にとってそれが安息日でした。神の本当の御心である安息日の姿でした。その日の午後なのです。イエス様はシモンのしゅうとめのそばに行かれた。手をとって起こされると、熱の支配が去りました。熱があることは個人的な、しかししんどい、苦しい状況です。そのそばに来てくださるのです。そして手をとって起こされたから熱は去ったと書かれているのです。イエス様によって神様がそばに来てしっかり手をとってくださった。自分では体を起こすことが辛い、できないから寝ていたわけでしたけれど、神様が手をとって起こしてくださるならば、苦しみはそのままであり続けることはない。起こされる。自分の根底にあるのは神ならぬ何かの支配ではない。苦しみの生み出す絶望でもない。罪の支配ではない。神の愛の支配なのだ。この手は主にとられて、わたしを今包んだ。その時、私たちは起こされ、立ち上がるのでしょう。まさに復活するのです。罪の赦しの中に入り、心も体も全てが主の御手に守られて、引き受けられて、立ち上がる私たちがいます。イエス様がいてくださる教会という家、神の家族に、今日もそのことが起こるのです。

2022年6月12日 聖霊降臨節第2主日 説教要旨

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」 家次早紀牧師

マルコによる福音書1章9~11節

今日は、 3年ぶりの花の日・子どもの日の合同礼拝です。マタイによる福音書6章28節以下には、このように書いてあります。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。」「今日は生えていて、 明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたが たにはなおさらのことではないか」この野の花、野の草が具体的に何を指すのかは記されていませんが、最近では、アネモネの花のことだろうと考えられています。パレスチナ地方では、夏になると丘の斜面にアネモネが一斉に咲きます。真っ赤なアネモネが一面に咲く様子は圧巻です。しかし、それらは多くの場合一日で枯れてしまったのだそうです。その枯れてしまったアネモネは、人の手によって拾い集められます。その後、火をおこすための材料として焼却炉に投げ込まれるのです。

そんな短い時間しか咲くことができないアネモネをも、神は美しく彩ってくださるのです。かぐわしい香りを与えてくださるのです。そして、それは私たちにも、同じことが言えるのだと書かれています。私たちは一人残らず神に生かされ、神に養われているのです。

けれども、なぜ神は私たちを生かしてくださるのでしょう。養ってくださるのでしょう。その答えが、今日の聖書箇所を読むと分かるのです。

ある日、ヨルダン川の岸辺に人だかりができていました。集まった人々は、 このような思いを心の中に抱えていました。「私は、なんて罪深いんだろう。神様は、こ んなわたしを許してくださるかしら。」「もし、神様が赦してくださらなかったら、一体わたし はどうなってしまうのだろう」そこで、彼らはこのヨルダン川で、悔い改めの洗礼を受けようとしているのです。悔い改めとは、罪を犯した人が、これからは心も体も神の方を向いて生きていくのだ、と決心することです。当時、洗礼はその悔い改めの印だったのです。

驚くことに、この洗礼を受けるための列の中にはイエス様もおられました。まるで、イエス様も罪人の一人であるかのようです。イエス様はヨルダン川に入り、洗礼をお受けになりました。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のよう に御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、 『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」 (10‐ 11節)「わたしの心に敵う者」という言葉は、直訳すると「あなたはわたしの喜び」です。

イエス様によって天が裂かれた今、私たちはこの神の声を自分に向けられたものとしても聞くことができます。私たちは神に愛されており、神の喜びそのものなのです。それ故に、神は私たちを日々生かし、養ってくださるのです。それは愛がなければできないことです。洗礼を受けるということは、「あなたはわたしの愛する子、あなたはわたしの喜び」と言ってくださる神に、「はい、そう信じます! 」と返事をすることなのです。

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