説教要旨
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2022年9月18日 聖霊降臨節第16主日 説教要旨

「イエス様の見ておられたもの」 家次恵太郎牧師

           マルコによる福音書12章35~44節 

礼拝は自分自身を神におささげすることです。献金はそれをあらわすもので、感謝と献身のしるしです。私たちは神のものとしての自分を生きていくのです。それを受け取り、意味を与え、用いてくださる神様がおられることは既に喜びです。

イエス様は献金をささげる人々を見ておられました。当時の賽銭箱(献金箱)はラッパの先端のような形をしていて、周りの人にいくら入れたのかがあえて見えるように作られていたといわれます。しかしイエス様はむしろ他の誰の目にもとまっていないものを見ておられました。「大勢の金持ちがたくさん入れていた」様子。人はその献金箱で、人に見せるための献金を計算して持ってくる、ということがあったのではないでしょうか。ちょうどその直前の個所で律法学者たち人目を意識して、上に立つことを願って、振る舞っていることに注意しなさいと言われたように。人は変わってしまうのです。もともと神に向かって誠実に始めた「ささげもの」である自分の心と行動が、人の方ばかり向いてしまうようになる。衣でさえ、座席であれ、挨拶でさえ、祈りでさえ、人の目をコントロールするために考えてしまう。

イエス様はその後に一人の女性を見たのです。よく見ておられたのです。神への信頼と感謝をもって持っている全てをささげた、ささげものを。ここでささげたレプトン銅貨2枚は数十円ほどです。それが何の役に立つのか、2枚あるなら1枚の方が上手くやれるのではないかとそういった人の考えからは取り分けられたささげものでした。人から強制されてでもありません。

献金であれ、奉仕であれ、本質的に自分自身をささげるとき、それは受け取ってくださる方がいるから意味を持つのです。その方が意味を与えることができるのです。イエス様はそのことをよくご存じでした。神への感謝と信頼を見ておられました。主もご自身の全てをささげようとされていたからです。十字架にかかり、ご自身の全てを父なる神におささげになるからです。命、それ以上はありません。その死は人間が見るならば、まるで失敗です。何の役に立つのか。もっとうまくやれなかったのか。途中まで大きな奇跡を起こし続けたが、何の意味があったのか。しかしその意味は神様が全世界に明らかにされたのです。神はキリストの犠牲を受け取られました。全ての人の罪の贖いのささげものとされたのです。その歩みの一歩さえ無駄にならず、地に落ちず、復活の命の扉が開かれた。救いの扉が開かれたのです。考えてみれば罪ある私たちが自分自身をささげて、受け取っていただけるのは赦しがあるからです。十字架に人生の全てを新しくされ、神様は私たちの一生に意味を与えてくださいます。私たちの小さな日常も全てが生かされ、福音が宣べ伝えられます。自分は他者は役に立つか立たないか、失敗したか成功したか、そうして有り余るものの中で考えて悩んでいるのではなく、深く委ねて歩み出したいと願います。

2022年9月11日 聖霊降臨節第15主日 説教要旨

「神の葛藤」 家次早紀牧師  

ホセア書11章1~9節

 

ある日、預言者ホセアは神の御声を聞きました。「行け、淫行の女をめとり、淫行による子らを受けいれよ。」淫行の女とは、ゴメルという名の女性のことです。彼女は何人もの男性と関係を持っていました。ホセアは神に従い、彼女を妻に迎え入れるのですが、それは波乱の幕開でもありました。ゴメルは、結婚後も他の男性のもとに通い続けたのです。その結果、彼女は悪だくみをする男性に騙され、奴隷にされてしまったのです。

 

奴隷となったゴメルは、失って初めて大切なものが何であるかに気が付きました。「初めの夫のもとへ帰ろう。あのときは、今よりも幸せだった。」皆さんは、彼女のその思いをどう受け止められるでしょうか。なんて身勝手なんだ、誰がその思いに答えるだろうか、と思われるでしょうか。しかし、神はホセアに、奴隷となった妻を買い戻しに行くようにと命じたのです。

 

一体なぜ、このような話が聖書に書かれているのだろうと、不思議に思われるかもしれません。実は、このホセア書という書物は、ホセアと妻の間に起きた出来事を通して神の愛を伝えようとしている書物なのです。当時、ホセアが住んでいた国は争いが絶えず、政治的にも、信仰的にも堕落していました。人々は神への感謝を忘れ、礼拝することを忘れていました。そんな人々を、神がどう見ておられるのか、一体どれほどの思いで愛し続けておられるのか、ホセアは自身の結婚生活を通して悟ったのです。

 

「わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」(118)この「激しく心動かされ」と訳されている言葉は、直訳すると「私の心は、私に反して、向きを変える」という言葉になります。神は正しいお方ですから、罪を見逃すことはなさいません。しかし、神はそんなご自分の心の向きを強引に変えてまで、人間を愛そうとされるのです。ついには、神はご自身の愛する子であるイエス様を私たちのもとに遣わしてくださいました。イエス様は、弟子のひとりに裏切られて逮捕され、無情にも十字架にはりつけにされてしまいます。もう息絶えようとする時、イエス様は「成し遂げられた」と言われました。十字架の上で、神の救いが成し遂げられたのです。ホセアに奴隷となったゴメルを買い取らせたように、私たちは神ご自身の命と引き換えに罪赦され、救われたのです。

そむいてばかりいる私たちが帰ってくるのを、いつでも、何度でも神は待っていてくださいます。神の果てしない愛に感謝し、心からほめたたえましょう。

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