説教要旨
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2022年11月20日 聖霊降臨節第25主日 説教要旨

「声が届くほど近く」家次恵太郎牧師

            ルカによる福音書23章35~43節

 十字架の上でのイエス様の言葉を聞きました。十字架刑はローマの処刑方法です。犯罪人がかけられるものです。横には二人の犯罪人がその行った悪いことのゆえに十字架につけられています。イエス様は自らの罪のゆえではない不自然な十字架です。全ての人の罪を代わりに背負う十字架は、このお方の十字架しか存在しません。聖書はここに、この十字架なしには救い無き人の罪の重さを示し、同時にここに愛があると示すのです。今日の個所の直前、主はこのような祈りを口にしています。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」(34)。隣で十字架にかけられていたその二人は、その声が聞こえるほど近くにいました。キリストは飼い葉桶に生まれ、無知で無力な罪人である全ての人を受け入れ、探し求める父なる神の招きを語り、その神との関係の中で病の癒しが起こされてきました。イエス様のこの祈りは生涯の全てと繋がっています。イエス様は無理やり神様に頼んでいるのではありません。独り子を十字架にかけることを決断され送られた父なる神様の心と一つであることがこの祈りからも見えてくるのです。

 横にいる犯罪人の一人は言いました。「自分自身と我々を救ってみろ」。十字架から降ろしてみろ、力のないメシアなどいらない、役立たずに用はない、という失望があります。主が十字架から降りることは罪からの救いの計画から降りるということを意味します。
 
 しかしもう一人は言いました。「我々は自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。不自然な十字架であることに気づく彼もまた、自分で自分を救うことができません。償いもできません。腕一本動かせないのですから。まるで罪に縛られその結果を受け取る私たち全ての人を象徴するようです。しかし、彼らはイエス様と会話できる近くに来ているのです。私たちがイエス様の御名を通して神に祈ることができるように。「主よ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。罪の結果でしかない今の自分がさらけだされているのに、覚えていてくださいと。また会いたいです、と。彼は、イエス様の王となる神の国が、赦しと憐れみの国であることを、見ていたのでしょう。この方がもたらす神の国はここで終わらない。イエス様の祈りと不自然な十字架の先に、彼はそのことを見ているです。主はこう応えます。「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」(43)。今日、今、永遠に神と共にいる約束を受けた。死を前にしてなお救い主とお会いして、彼はもはや、神と離れた孤独の中にも、罪の支配の中にもいませんでした。開放され安らかさを手渡されたものとして「生きること」になったのです。罪の赦しと永遠の命が始められる、十字架のキリストから。世界中がこの福音を与えられ、受け取ることができるのです。日々のいかなるものも、心も身体も動かす力が出ない時にも、主は、神が支配する安らかなところにわたしと共にいるのだと言ってくださいます。

2022年11月13日 聖霊降臨節第24主日 説教要旨

「f復活の時」 家次恵太郎

                       出エジプト記3章1~15節

 「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(10節)。燃えているのに燃え尽きない柴の間から、モーセは神に語りかけられます。今、ですか。この時のモーセはそう問いたくなるほどに燃え尽きた人でした。既に2章において、神の民イスラエル(ヘブライ人)をエジプトの奴隷状態から解放するために行動を起こしていました。40年前のことでした。ヘブライ人を打ちたたくエジプト人を殺してしまいます。もちろん聖書はその殺人行為を肯定しているのではありません。しかし、その時燃えたぎっていた同胞を助けようとする情熱は、イスラエルの人々とともに燃え尽きずに展開していく見込みでした。しかし、モーセだけがイスラエルの民の生まれでありながらエジプトの王宮で育ち、重労働を課されることもなく生きてきたことを、イスラエル側は良く思っていませんでした。異質な存在。そんな奴に口も手も出されたくない。「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか」(14節)。そしてモーセによるエジプト人の殺人事件を耳にしたファラオはモーセ一人を反逆者として捕えようとします。もはやエジプトに居場所は皆無です。急いで、急いで、何も顔に別れを告げるいとまもなく、ミディアンの地に逃れていきました。そこで羊飼いをして暮らすことになりました。家庭も持ち、たった数日前に描いていた未来とは全く違う人生を生きることになりました。燃えるものなど何もなく、何もかも燃え尽きた。時代は変わりファラオも代替わりし、モーセにとってはもう遠いイスラエルの民、エジプト。しかし神様の救いの炎は燃え続けておられた。イスラエルの声を聞き逃すことはありませんでした。神の中で、何も終わっていませんでした。

 今、モーセには拒否したい理由がいくらでもありました。能力的ま事もあれば年齢のこともある。神は燃えておられても、燃え尽きた自分はもはや何者でしょうかと問うばかりです。ミディアンでのそれなりの日々を彼は生きてきたのです。しかし神はそんなモーセをこそ遣わすのです。モーセを呼び、出会い、ご自身の救いの御心を明らかにされた方は、モーセの能力を問いません。神に語り掛けられ、神が共にあり、神に新しく生かされて、派遣されるのです。全責任は神が担ってくださいます。そうでなければ遣わされないのです。私たちが日常の困難に向かう時にも、神共にいない瞬間はありません。人の情熱とは出所の違う炎ですから、いつも私たちを慰めて平安のうちに燃やしてくださいます。燃え尽きません。そのとき、これはまでの挫折や自己評価を超えて生き始める復活を経験します。それは大きな事に限りません。小さな出来事にも、神共にあるあなたが遣わされて、神の愛の業がそこにあらわされると信じて生きるという道が開かれるのです。今、行かされてみませんか。

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