「イエスの方へ進んだ」 家次恵太郎牧師
マタイによる福音書14章22~36節
嵐の湖を、イエス様の弟子たちが弟子たちだけで漕ぎ悩んでいます。
危険から来る不安、不安から来る焦り、焦っても直面するのは自分たちでは対処できない無力感であるでしょう。キリスト者は、信仰に生きながらも、その不安に沈んでいくことがあります。実際、状況が苦しいのですから、苦しみの方に目が向いてしますばかりになるのは仕方ありません。
しかし、聖書を読み進めると、イエス様が湖の上を歩いて、弟子たちのところに来てくださいました。湖はその足の下です。「湖」と書いてありますが、この言葉は「海」という言葉です。荒れ狂う海、人間を遥かに超えたその得体の知れない力の前に、自分でなんとかできるという人はいません。その海を足の下に踏みつけているキリストの姿が見えました。わたしはここにいる、確かに共にいるのだと語りかけるイエス様はこのようなお方です。世の暗闇の力、困難極まりない八方塞がりの状況、辛い心の内から、私たちを確かに支え、助けることがおできになる方なのです。
ペトロはイエス様のもとにいくことを願いました。イエス様の言葉を求めるペトロに、「来なさい」という御言葉をもって招いてくださいます。
しかしペトロは途中で、風と波に気が付いて怖くなり、沈み始めます。ペトロが湖の上を歩いているときよりも、私たちに身近な存在として感じられませんか。私たちもイエス様に従って歩き出したつもりでも、途上で怖くなり、心も体もどうにも負けてしまい、沈んでいくことがあるからです。
「主よ、助けてください」。疑ってなどいられません。信じられるか信じられないかなどと言っている場合ではありません。主よ、助けてくださいとしか言えません。しかしそれでいいのです。そこに、イエス様は手を伸ばしてつかまえてくださいました。沈ませまいとして手を伸ばして下さるキリストはペトロを確かにつかまえてくださり、ペトロは沈んでいかなかった、これは、イエス様が生きて働かれる全ての生活の場所で起こされる事実なのだと聖書ははっきりと伝えるのです。
ペトロがイエス様を探してつかまえたというのではありません。イエス様がペトロをつかまえてくださったのです。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」という言葉は、沈みゆくペトロに向かって語ったのではありません。手をつかまえ決して沈まないようにしてくださりながら語るのです。沈み始め、沈みゆくしかない、悲しい存在が、主の御手の中にしっかりと引き受けられている。これは福音です。一方的な恵みなのです。私たちの目に見えない現実として、確かに起こされているのです。キリストは確かにいてくださり、海を足下にして私たちをつかまえていてくださいます。私たちは沈みかけても、イエス様は決して沈むことはありません。この方に、どうか、助けていただきましょう。