「信じる気持ち」家次恵太郎牧師
ルカによる福音書7章1~10節
イエス様のところに、とても困っている人が来ました。離れたところにいる人の、急を要する話です。ローマの部隊をまとめる百人隊長の部下が病気で死にかけているというのです。イエス様のところに使いとして伝えに来たのはユダヤ人の長老たちでした。ユダヤ人とローマ人は決して助け合う関係性ではありませんでした。ユダヤ人は異邦人と呼び、自分たちの神を信じない者としてそして支配してくる人々として見ていました。ローマ人もそんなユダヤ人たちを良く思ってはいませんし、支配下にある民族として扱うばかりでした。しかし彼らの間の空気管はそうしたものとは違います。長老たちは言います。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」(4節)。強制されたからではない。心に浮かぶのは愛され良くしてもらった記憶。その部下のことならば神の癒しを求めたい。そしてイエス様に神様の恵みから来る癒しがあることを信じて彼らは来たのです。百人隊長自身、心配する日々を積み重ねてきました。病気が死にかける即ち改善されて行かなかった。そんな中でどんなにか心がぐるぐるとしたことでしょうか。どうしてもう少し早く気が付けなかったかな。手はあったのではないか。そこでは百人隊長としての戦力は何の役にも立たないのです。人生の積み重ねは人を本当に生かし守るところで無力さの象徴になることがある。上級の士官もいるでしょう。いろいろな才能のある部下もいるでしょう。しかし誰も何も自分も、泣くことしかできないのです。
イエス様の噂や出来事は周囲に知れ渡っていました。百人隊長は助けを求めました。その助けが届くために働くことを受け入れた長老たちがいました。イエス様も歩き出しました。ですが、百人隊長がイエス様という方の話の背後に見ていたのは、単なる蝶野力のような癒すちからではなかったことが明らかになります。イエス様一行が家に着く前に、彼の友人が来て、家に来てくださらなくていいと伝えました。その理由はこうだと言うのです。「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれているものですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』といえば行きますし、他の一人に『来い』といえば来ます」(7‐8節)。彼はイエス様の御言葉と出来事に神の権威を見ていたのです。神が言葉を発して天地は造られました。イエス様の存在自体が、神が人を愛し、守り、罪を赦す権威ある神の言葉です。その言葉の通りに生き、神の愛を届けてくださいました。その通りになる。人生に、命に、苦難に、神の支配は与えられます。何ものをも超えて。神が語る言葉が私たちに向けられていると信じて礼拝します。事実その通りなのです。神が私たちと共におられ、命を捨てるほどに愛したその愛でいついかなる局面も守ってくださると聖書は語ります。これから歩む道は開かれ、支えがある、祈りは聞かれている。私たちを知っていてくださる方の「ひと言」に権威があります。私たちの心を静め、信じて、委ねたいと願います。