説教要旨

2024年4月28日説教要旨

「明日は」 家次恵太郎牧師 

     ガラテヤの信徒への手紙5章13~25節

「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。」(1617節)。 

肉と霊とが対立しあっていて、したいことができない。それは私たちの現状そのものではないでしょうか。肉とは単に肉体のことではありません。罪の性質のことです。キリストの十字架の救いを受けとる洗礼を受けた後でも、依然として根深く残り続ける罪深さです。それが、「姦淫、わいせつ、好色、 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのもの」をもたらしているのだと言われます。

挙げられているいずれも、そのとき人は自己中心です。自己中心と、「霊」、つまり聖霊なる神が与える、父なる神の愛の導きによるキリストの恵み新しくされた自分が衝突し、最初は善意から始まっていたことでさえ何かに飲まれていき、したいと思うことができないのです。

 

「以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」(1921節)。

 こうなると誰もが部外者でしょうか。いいえ、行い続けない、という選択肢が残されています。なぜなら肉と霊が私たちの内で対立しあっているけれど、霊は肉より強いからです。罪は神より強いと思うかです。神は終わらさせることを望んでいるならば今日私たちに語ったりなどなさらないのです。

 

「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(2225節)。

実を結ぶのは聖霊です。神ご自身です。私たちではありません。肉の業は「明らか」と言われるように3秒あれば行動や発言に移せるものです。そこに喜びも平和も誠実もありはしません。しかし、霊は実を結ぶように御業を進めていかれるのです。今は見えないこともあるのです。でも、霊の結ぶ実は愛、神は愛、神様は負けない。肉と対立しあって下さっているとは実は朗報です。霊の導きに従って歩むのです。霊の結ぶ実を求めて、祈り求めて、選びとることへ導かれましょう。どんなときも、その選択肢は消えていません。

2024年4月21日説教要旨

「あなたはよく知っておられます」 家次恵太郎牧師 
       ヨハネによる福音書21章15~25節 

「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。」(15節)

ペトロとイエス様が語り合っています。聖書のもとの言葉(ギリシャ語)ではイエス様が言っている「愛」という言葉は「アガペー」の愛、神が持ち神から来る完全な愛が使われています。人を受け入れ、赦す愛です。ペトロが使っている「愛」という言葉は「フィレオー」です。これは友愛の意味で、完全な愛というにはもう少し軽いもので、見返りを求める、人間の持つ愛です。このようなやり取りが三度繰り返されます。ペトロは三度イエス様を知らないと言って関係を否定した過去を抱えています。誰よりもイエス様を愛し従おうとしていたペトロでした。彼にとってイエス様との関係がどうであるかが再出発を決めるのです。

2回目も同じです。アガペーにフィレオーで返し、愛しています、ではなく愛していることはあなたがご存じです」と言うのが精一杯だった。
3回目、イエス様はまた尋ねます。知らないと言った回数と同じだけ聞きながら、イエス様はペトロに詰め寄るのではなく歩み寄って近づいて眼差しの高さまで降りて来てくださいました。3回目はイエス様の「わたしを愛しているか」の問いも、フィレオーを使っています。ペトロにある、その愛でいい。そのあなたでいい。神を愛しキリストを愛し、「わたしの羊」である人々と共にイエス様のもとに行こうと導いていく羊飼いになりなさいと使命を託してくださいました。まずペトロが、そのために傍らで語り給うキリストから平安をいただかなければなりませんでした。
そういう時間があるものです。私たちにも、主は今日も自分の思いを超えた言葉を、自分の目線に降りてきて語ってくださいます。
 上手く行かない人生の時間にも、最終的には死に直面してさえ人は神に委ねてついていき、イエス様に愛されて愛し返し、神の栄光があらわれる。そんな生き方ができるのです。

2024年4月14日説教要旨

「永遠に変わらないもの」 家次恵太郎牧師 

           ペトロの手紙一1章13~25節 

「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ

草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」(24節)。

ああ、枯れてしまった。散ってしまった。そういう瞬間を目の当たりにする時があるものです。その出来事が心の奥に刻まれて、それから長い時間を過ごすものでしょう。

聖書は人の話をしています。人は、有限であり罪の影響下にある出来事に傷つきます。

 

しかし、主の言葉はキリストによって届けられその出来事によって約束されました。それは私たちを赦し、取り戻し、回復させる主の愛が、枯れることも変わることもなく注がれるということです。

 

 本日、旧約聖書朗読で読まれたイザヤ書61章にこうありました。「嘆きに代えて喜びの香油を 暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」(3節)。

 嘆きを通った、通り続けたその時間に代えて、すなわちその中心となったことそのものが喜びの中心となる。神が変えるからです。

持ち続けた暗い心とその理由から、神への賛美が溢れて感謝と元気に満ちていくようになるのです。神がそれをなさる、いや既にその時を見ているというのです。神様は真におそるべき方です。

 

枯れて、散った花が、もとに戻るはずがないのに新たな道を経て、神の奇跡により新しく生まれて生きる姿がこの世界に見えたら。目の前の全ての意味は変わるでしょう。そういう瞬間なら生きるに値すると思わされるでしょう。

 

自分の人生であれ、他者であれ、そのような神の恵み深い導きが…永遠に私たち人間の破れと敗北と罪を超えて覆す。

神が散らせない。あなたも、誰かも。

 

御言葉はそのような主なる神を伝え、そのような神から語られるのです。

変わることなく。

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