「楽しみにしていた」家次恵太郎牧師
創世記12章1~9節
「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである」(ヨハネ8:56)。アブラハムは何を見たというのでしょうか。イエス様によってあらわされることになる神の救いの実現を見て喜んだのです。しかし、アブラハムの時代とイエス様がおられる時代は全く違います。
つまり、旧約聖書においても新約聖書においても、神様がなさろうとしていること、なさっていることが共通しているということであります。そしてそれこそ、キリストによって成し遂げられるものなのでした。その日をもたらすために来た、その時代を始めるために来たと言うに尽きるのです。
アブラハムは創世記12章ではアブラムと呼ばれています。神はアブラムに呼びかけ、新たな人生へと遣わします。「あなたは生まれ故郷、 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように」(1-2節)。祝福とはなんでしょうか。神様が良きもので満たし、共にいてくださり、未来を開いてくださるということです。そしてそれはアブラム個人のことに留まらず「祝福の源」とされるというのです。水も水源から出るものですが、祝福の源があるならばそこから神様の良きものが広がっていくのです。そのためにこの世界に置かれるのです。アブラムに世界に広がるほどの子孫を与える約束も与えられます。そのように後のイスラエルの民の始まりとされていくのです。神様は救いの歴史を進めていかれる。救われるものが起こされていく。数えることなどもはやできないほどに。
アブラムが御言葉による約束の先に見たその日、それこそ今日の私たちの日です。イエス様によってどんな人もどんな時も神様の祝福の中に入れていただける日です。祝福されたものが、遣わされる場にいることによって祝福の源になる。アブラムが生きていくことによって広がった主の御業は、アブラムで止まらず、息子イサク、ヤコブ、その子孫たちに続き、キリストというまことの祝福の源を迎えるに至ったのです。
その歴史は罪の赦しの歴史です。神の業がいつくしみ深く続けられていく歴史です。まさに未来は神から来る、神しか開けないのだということを知らされる歴史でした。そこには祝福されなければならない世界があります。神の良きものを与えられなければ、人の罪の支配するどぶ川のような
そのためには、私たちは住み慣れた地をあとにするように、想像もしなかった日々に歩みだすこともあるのです。その日々という未来は、神様に祝福され、神が共におられ、神が送り出してくださるからこそあるのです。私たちはどんなときも守られています。私たちの歩むその人生の場所で、誰かが神様のくださる愛と恵みの中にいることができるのです。祝福の源となるように…私たちは祝福され、祝福となるのです。